【マギアレコード】ドッペルの真実 ドッペルの先は悪魔法少女

 魔法少女まどか☆マギカ外伝 マギアレコードにはドッペルという現象があります。

 マギアレコードの舞台である神浜にいれば、ソウルジェムに穢れがたまっても魔女化せず、穢れがすべてドッペルに使用されます。これによってソウルジェムは浄化され、魔法少女が力尽きることはありません。

 一見すると魔女化しない素晴らしい現象ではあります。しかし、原因不明の副作用が存在するため、物語中では過度な使用を控えるようになっています。

 果たしてドッペルは信頼してもよいのでしょうか?

 今回は魔法少女の宿命を振り返り、ドッペルの真実とその先に待つ可能性について考察を行っていきます。

 

1. 魔法少女と魔女 希望と絶望

1.1  魔法少女

 魔法少女は希望を願い、世界へ希望をもたらす存在です。
 そんな魔法少女なら必ず持っているソウルジェムは
キュゥべえと契約した際に魔法少女の魂を物理的に具現されたものです。
 このおかげで痛覚を遮断することができ、怪我を魔力を使って回復できたり、視力の矯正などを行うことができるようになります。
 しかし、ソウルジェムと体はリンクされている状態で運用しているものであり、ソウルジェムと体が離れすぎるとソウルジェムは体を動かすことができなくなります。
 また、ソウルジェムが砕かれることは魔法少女の死を意味します。

 キュゥべえと契約する際に少女は必ず何かを願います。その願った内容と少女の因果律を考慮して魔法少女の性質が決定します。
 魔法少女の性質は十人十色ではありますが、それゆえに得意不得意が必ず存在します。不得意な部分は経験で補うか、チームを組んで協力し合うしか方法はありません。

 魔法少女は特定の場合を除いてほぼ「魔法少女の真実」を知る機会はありません。
 魔法少女の真実は、ソウルジェムに穢れが満ちると魔女になるということ、ソウルジェム自体が自分のすべてだということです。
 大抵の魔法少女はこの真実を受け入れることができず、命を絶つか自暴自棄の果てに魔女化します。

 

1.2  魔女

 魔女は世に呪いを振りまく存在であり、魔法少女の倒すべき敵です。
 また、魔女は魔法少女に呪いが溜まった末路でもあります。魔法少女が魔女になる時、ソウルジェムはグリーフシードへと変わります。この時に希望と絶望の相転移エネルギーが放出され、魔力の性質は呪いへと変化します。
 魔法少女から見たら狂気の塊である魔女ですが、厳密にいうと魔女に感情はありません。本能レベルに刻まれた己の性質をただ満たそうとし、邪魔するものは排除するという獣同等のことしか行っていません。
 キュゥべえにとって魔女はエネルギーを抜き取った後の抜け殻程度にしか思っておらず、それでも魔法少女に溜まった穢れを吸い取るグリーフシードがあるため、利用価値だけはあるとは考えています。

 さて、魔女に魔力の概念があるのかというと、それは確かに存在します。
 魔法少女にはそれぞれ性質が存在し、性質は魔力パターンとして検知できます。魔法少女同士はそのパターンを覚えることでお互いの居場所を確認しあうことも可能です。
 魔女を探す場合もその魔女の魔力パターンを覚えて居場所を突き止めます。これは魔女に魔力という概念が存在しなければ検知すらできません。
 ゆえに、魔女にもしっかりと魔力の概念があります。

 しかしその性質は魔法少女とは真逆で、呪いを魔力の源としています。そのため、使い魔も呪いを溜め込んで魔女へと成長することができます。グリーフシードが呪いを吸収するのは、魔女にとって呪いが魔力の源だからです。

 

2. 自動浄化システムの真実

2.1 ソウルジェムの仕組み

 ソウルジェムは魔力が溜め込まれる宝石でもあり、ここに穢れが溜まっていきます。魔力の消費、絶望を感じるごとに穢れがたまっていき、ソウルジェムに穢れの量が限界に達するとソウルジェムはグリーフシードへと変化します。肉体とリンクしているだけでも魔力を消費するため、魔女化を回避するためには魔女の存在が欠かせないのがほぼすべての時間軸に当てはまる話です。

 希望でできた魔法少女の魂に呪いが満ちた時、魔力の性質が希望から呪いへと変わります。この変換作業の際に相転移エネルギーが放出されるのです。このエネルギーをキュゥべえは欲していて、相転移エネルギーはキュゥべえが回収し、宇宙が消費しているエネルギーへと変換されていきます。

 相転移エネルギーを放出したことでソウルジェムから感情という概念は消失してしまいます。残念ながら魔法少女まどか☆マギカの本編でも、マギアレコードでも魔女の感情について深く言及している場面は存在しません。
 唯一魔女には感情がないと考えられる要因は、呪いの力を自給自足できないという点です。感情を持っていた場合、否が応でも負の感情は抱くものです。もし魔女に感情があるのであれば、呪いの象徴である魔女自身で呪いを生み出し、力とできるため負の感情を求める必要はありません。
 しかし魔女は人を襲っては恐怖や絶望といった負の感情を集めて力としているように見受けられます。使い魔が人を襲うほど強くなるのも負の感情を力としているからです。
 イブがなかなか魔女にならなかったのも、イブ自身には感情の概念が存在しなかったからです。おそらくあのままワルプルギスの夜を倒して自らの力としても希望から絶望への相転移は起こらなかったでしょう。

 では感情を失った魔女は、元魔法少女とは別物なのでしょうか?
 厳密にいうと魔法少女の頃の力を受け継いでいて、魔法少女の性質=魔女の性質という関係が成り立っています。魔法少女と魔女の違いは、希望を魔力としているか、呪いを魔力にしているかの違いと感情があるかないかの違いだけです。

 このように、ソウルジェムが生み出す相転移エネルギーというものは感情があってこそ成り立つものです。

 

2.2 自動浄化システム

 神浜にある自動浄化システムはういの「回収の力」を利用して小さなキュゥべえが依り代となった結果生まれた奇跡の産物です。

 自動浄化システムはソウルジェムに溜まった穢れを回収することで魔法少女の魔女化を防ぐという素晴らしいシステムです。
 しかし、もしこのように機能しているのであれば、そもそも魔法少女に穢れが溜まること自体が起きないはずなのです。ういが魔法少女になりたての頃の現象を見ればわかりますが、際限なく穢れを集め続けます。
 常に穢れを回収しているのであれば、ドッペルを発動するなどということが起きるはずがないのです。
 このことから、自動浄化システムが発動する条件は「ソウルジェムに穢れが満ちたとき」です。

 ここで疑問に思うことが出てきます。
 ソウルジェムに穢れが満ちたとき、魔法少女の魔力が希望から絶望へと変わるために相転移エネルギーが発生します。
 相転移が発生してしまうということは希望から呪いへ変わるという魔力の反転化が発生するはずです。これが発生しないということは、自動浄化システムには魔力の反転化が起きないようにする仕組みがあるということです。

 それこそが、ドッペルです。

 

2.3 ドッペルの仕組み

 自動浄化システムが相転移エネルギーを回収する際に魔法少女から現れるのがドッペルです。

 ドッペルが発動する際、ドッペルを発動した魔法少女と繋がっているとは限りません。中には魔法少女自身がドッペルに掴まっているだけという場合があります。これは魔法少女の感情の起伏に依存します。

 感情の起伏が乏しいほど相転移エネルギーの量も少ないため、ドッペルが完全に体から離れない状態となってしまいます。逆にドッペルが魔法少女の体から離れている場合、相転移エネルギーが多いと考えられます。

 そしてドッペルは魔法少女の感情の写しであり、魔女と鏡合わせの存在に当ります。

 このように説明されることが多いのですが、実はドッペルは魔女の写しです。
 原作組の魔法少女が出すドッペルに注目すると、まどマギに出てきた魔女とドッペルの名は同じです。
 そして「○○のドッペル」と表現される際の○○は魔女の場合は性質であり、姿は「○○の魔女」と表現される際の○○に入る表現に一致します。
 このように原作組の魔法少女に注目するとドッペルは「魔女の写し」というとらえ方もできるのです。


 ドッペルは魔法少女が行きつくはずの姿である魔女の写しであることから、魔女化を抑制している存在だということがわかります。

 さて、ドッペルという言葉の意味を知っているでしょうか?
 世間一般でドッペルと言えば「ドッペルゲンガー」つまり、「もう一人の自分」です。

 ドッペルの解放クエストのように各魔法少女は映し出されたもう一人の自分と対面し、感情を捨てるかどうかの選択を迫られます。
 感情を捨てないことを選択した場合、もう一人の自分が代わりに魔女化してくれるおかげで自動浄化システムの範囲内では魔法少女が相転移エネルギーを放出する際に感情を失うことはないのです。これがドッペルの仕組みです。
 もし感情を捨ててしまった場合、本物である自分がドッペルとして消費されてしまい、ドッペルとなるはずだったもう一人が「本物」としてなり替わってしまうのです

 ドッペルは魔法少女の感情の中にもう一人の自分を映し出し、映し出されたもう一人がドッペルとして消費されることで感情の消失を抑えているのです。

 また、ドッペルが出現後短い間しか存在できないのは、相転移エネルギーの一部を使用しているおかげで姿を維持しているからです。

 

2.4 自動浄化システムの真実

 自動浄化システムは決して魔法少女に溜まる穢れを回収するシステムではありません。自動浄化システムは「魔法少女を魔女化させないシステム」として存在しているのです。

 自動浄化システムはソウルジェムで相転移エネルギーを発生させ、魔法少女の感情を映し出して映し出した存在に魔女化を肩代わりしてもらうことで魔法少女の魔女化を防いでいるのです。

 多くの魔法少女はドッペル発動後にソウルジェムが浄化されていることからそう考えてしまいますが、魔女化の過程は直前まで踏んでしまっているのです。

 このことから、ドッペルの発動回数は本来の魔女化する回数に等しいといえます。相転移エネルギーが回収されるたびにソウルジェム内部では魔力の反転化が行われようとするため、魔力の状態が不安定となってしまいます。

 ドッペル発動後に疲労感を感じるのは、魔力が不安定なっていたからなのです。
 体を動かす際に魔力が消費されると考えると、魔力が不安定な場合は体とのリンクもうまく行えない状態だということです。ねむのように体の一部が不自由になるというのは、体とのリンクが不安定になっている証拠でもあるのです。

 ドッペルを出しすぎた結果、ソウルジェムは無事でも体とリンクすることは叶わなくなる可能性があります。

 最も深刻化するのは魔力の不安定化です。
 魔力が不安定となる理由は、魔力の反転化が無理やり防がれていることが原因です。この反転化は反転する直前にドッペルが肩代わりしているため、完全な反転化は防がれています。
 しかしストッパーというのは負担がかかればかかるほど手を加えなければいずれ脆くなり、機能を果たさなくなります。さらに言うと、感情を持つ魔法少女は絶望を抱いたとしても魔女となることができずに絶望を抱いたまま魔法少女を続ける場合があります。

 ドッペルを使いすぎた場合、魔力の不安定さが増し、最終的には魔力の反転化を許してしまう可能性もあり得ます。

 では、ドッペルによる副作用をまとめてみます。

ドッペルの副作用

・魔力の不安定化

・体とのリンク不調

・最終的には魔力の反転化が発生する可能性がある

 

3. ドッペルよりも深い魔女の先

「人間は成長途上の女性のことを、少女と呼ぶんだろう?
なら、いずれ魔女となる彼女たちは、魔法少女と呼ぶべきだよね」

とあるキュゥべえはこう語りました。

 魔法少女という存在は願いを叶え、希望を与える存在でありながら負の感情を知った先で絶望を知り、感情をなくして本能のままに絶望をまき散らす魔女になるという悲しい宿命があります。

 自動浄化システムはこの宿命から逃れるために存在するようなシステムです。

 しかしその先にあるものは、絶望を感じながら魔法少女であり続けるという末路です。少なくとも人間社会では生きていけない存在となってしまった彼女たちは、魔法少女であり続けた先に、希望を与え続けることが可能なのでしょうか?

 最終的には感情に押しつぶされてしまい、魔力の反転化が許されてしまうかもしれません。魔力の源が呪いとなった魔法少女は、果たして魔法少女と言えるでしょうか?

 魔女ではなく、魔法少女でもない存在が現れることになります。

 魔法少女でありながら呪いを振りまく存在は、悪魔法少女と呼ぶことにします。

まとめ

・自動浄化システムは「魔法少女を魔女化させないシステム」

・ドッペルは魔法少女の感情を映し出して映し出した存在に魔女化を肩代わりしてもらって発動するもの

・ドッペルを多用すると魔力の不安定が不安定となり、魔力の反転化が起こる可能性がある

・魔法少女でありながら呪いを振りまく悪魔法少女となってしまう危険性がある

 

 

あなたは人へ希望を与え続けられますか—

【マギアレコード】ドッペル調査録

マギアレコードの注目すべき点として、ドッペルというものがあります。

~ドッペル~

神浜市でソウルジェムに穢れが満ちたとき、体の一部に魔法少女の感情の写し”ドッペル”が現れる。ドッペル発動後はドッペルにすべての穢れが使用され、魔法少女が力尽きることは無い。

ドッペルというものは絶望して力尽きてしまうという魔法少女の理を覆す素晴らしい仕組みです。しかし、ドッペルはイブによって引き起こされている現象でした。ドッペル発動によって引き起こされるのは現在疲労感しか確認されていません。しかし、それ以外にも危険な要素があるはずです。

今回はドッペルが安全かどうかを判断するためにドッペルを調査し、まとめ、最終的な判断を下していこうと思います。

まずは情報集めから行っていきます。

では、調査していきます。


ドッペルの本格的考察はこっちだよ
   ↓
ドッペルの真実

 

・ドッペル発動可能キャラ調査結果一覧・

今までに実装された魔法少女の数:216 (10/9時点)

今までにドッペルが実装された魔法少女の数:167

ドッペルを発動することがない魔法少女の数:33
※アルティメットまどか、万年桜のウワサ、高町なのは、フェイト・T・ハラオウン、八神はやて、環いろは&やちよ、梨花&れん(クリスマス)、タルト(ver.Final)、レナ・かえで(水着ver)、万年桜のウワサ(水着ver)、小さなキュゥべえ、やちよ・みふゆ(始まりver)、鶴乃・フェリシア(宅配ver)、灯花・ねむ(聖夜ver)、いろは・うい(巫女ver)、ウワサのさな、究極まどか先輩、いろはちゃん、ももこ・みたま(人魚ver)、まどか・いろは、かりん・アリナ(ハロウィン)、那由他・みかげ(クリスマスver)、ホーリーマミ(アニメver)、佐倉杏子(ドッペルver)、悪魔ほむらちゃん、水波レナ(アニメver)、ウワサの鶴乃(アニメver)、七海やちよ(アニメver)※ドッペル扱いされてるかは謎、まさら・こころ(花嫁ver)、佐鳥かごめ(百鬼夜行ver)、悪魔ほむら、錦木千束、井ノ上たきな、鹿目まどか(scean0)

ドッペル未実装の魔法少女の数:16

 

 

環いろはのドッペル

環いろは

ドッペル名:GIOVANNA

沈黙のドッペル その姿は、呼子鳥
称号:沈黙と妹を呼ぶ声

説明
この感情の主は、自身のドッペルの情けなさに気が付きつつも、その姿を直視できないでいる。
このドッペルは何も語らず、聞きたくない全てを布で絞め壊し、その胸に空いた穴を埋めるものを探し続けている。
誰かを呼び求めなくてはいけなかったはずなのに、臆病なこのドッペルは布で覆い隠した現実を直視することを恐れ、沈黙し耳を塞いだままでいる。

ドッペルに変化した部分
髪の毛

ドッペル発動時のセリフ
「これが私の本当の気持ち」

沈黙は黙り込むこと、口を利かないことを意味します。声をかけようと、何をされようと口を開かずただ静寂を守るのがこのドッペルの性質です。
魔法少女になる直前のいろははクラスメイトによくついて回っていたものの何か自分から発言することもなく、苦手なものを勧められたり、話を振られても人間関係が悪くなることを恐れ、自分を押し殺してきました。
そんな自分を見せたくないと、ういの前ではいつも事実を話せずにいました。
そんな事実を隠す行為が、ドッペルに反映されたのでしょう。

呼子鳥は鳴き声が人を呼ぶように聞こえる鳥のことです。その正体はカッコウ、ウグイス、ホトトギスなど様々な説があります。
なぜ姿が呼子鳥なのかというと、死の淵からういを呼び戻したこと、神浜に来てからういの名前を呼び続けたことから来ていると考えられます。
初めてのドッペル発動時はういの行方が知らない状態でした。
ういを見つけ出すことができず、果ててしまう自分の姿がドッペルに映し出されたのでしょう。

このドッペルの名前であるGIOVANNAはイタリア語圏で女性名として使用されています。また、ジョバンナはジョバンニの女性名にあたり、元のジョバンニは銀河鉄道の夜に登場する主人公の名前でもあります。
銀河鉄道の夜はジョバンニとその親友のカムパネルラが旅をする物語であり、マギアレコード第一部の内容と類似します。
やちよと親しい関係であること、マギアレコード第一部が銀河鉄道の夜の影響を受けていることからジョバンニの女性名「ジョバンナ」がドッペルの名前として与えられたのでしょう。
唯一の共通点としてジョバンニも契約直前のいろはも周りから疎外され、幽霊のような立場にいたということです。

ちなみに星5として覚醒したいろはがフードをかぶっていないのは、現実を直視する勇気、心の強さを得たことを表しています。しかしドッペルは変わりません。



七海やちよのドッペル

七海やちよ

ドッペル名:CAMPANELLA

モギリのドッペル その姿は、切符鋏
称号:モギリ見送った同胞たち

説明
この感情の主はやがては自分も今まで見送った友を追って旅に出る日のことを夢想する。
尾の先にぶら下げられたランタンに灯した火で様々な幻影を呼び出す他、尾のハサミで傷をつけられた者は遠くない未来に必ず大きな災いが訪れるという。
長く魔法少女として生きてきた者、年齢の高い者のドッペルは正負の感情幅が少なくなってしまうことにより、このドッペルのように本体から分離しきれず一体化した姿となる場合がある。

ドッペルに変化した部分
両手、左足

ドッペル発動時のセリフ
「おいで」

モギリは、入場券の半券を切り取ることを指します。また、切符鋏は現代ではあまりなじみはありませんが、列車の搭乗券の確認済みという印をつけるハサミのことを指します。
やちよのドッペルを開放するときにかかわったストーリーを見るとわかりますが、やちよの願った「生き残りたい」という願いのために仲間の命を生き残るための切符として使用しています。おそらくこの事が彼女の絶望につながったため、ドッペルの姿では切符鋏が強調されているのでしょう。

ドッペルとして変化したのは両手と左足というほとんど一体化したような状態です。ドッペルの説明文にもある通り、やちよは魔法少女歴が長いことからほとんどドッペルが体から離れていない状態となっています。

なぜ蠍の姿なのか、というと「銀河鉄道の夜」という作品の中にある”やけてしんださそりの火”からきています。
このエピソードに登場する蠍は、いくつもの命を奪って生きてきたことを井戸で溺れながら後悔します。このことがやちよの絶望、後悔によく似ています。そのことから、蠍に似た見た目となっているのです。また、ドッペルの攻撃方法は、ランタンの灯で相手に溺れる幻影を見せています。攻撃方法も、蠍の火のエピソードからきているのです。

このドッペルの名前になっているカムパネルラはいろはのドッペルの名前となっているジョバンニと親友の関係です。ドッペル自体はやけてしんだサソリになぞらえていますが、名前はいろはと親しい関係であることを表すため、ジョバンニの親友の名前が当てられたのでしょう。




由比鶴乃のドッペル

由比鶴乃

ドッペル名:YUHONG

団欒のドッペル その姿は、金華
称号:団欒と偉業の壁

説明
この感情の主はこのドッペルの容姿に関してかなり不満を抱いている。
また、主の奉仕によって偉業を成し遂げたいという思いとは異なり、無限の富を生み出すことで身内の欲望を際限なく叶え仮初の団欒だけを守ろうとするこのドッペルの性格に対しても不信感を持つ。
主はこのドッペルが自身の崇高な目的の真逆にあると考え、その俗悪な姿を誰にも知られたくないと思っているが、仮初であろうとも団欒の崩壊を防ぐためにはいつかこのドッペルの力に頼らざるを得ない日が来るだろう。

ドッペルに変化した部分
体とつながっている部分はなく、ドッペルにつるされているような姿

ドッペル発動時のセリフ
「暴れて」

 


 団欒は、親しい人たちが楽しく過ごすことを意味します。つまり、由比家が楽しく暮らし続ける事をこのドッペルは叶えてくれるというのです。金華には贅を尽くした飾りという意味もあります。由比家の偉業だけは自分の力で成し遂げたいと考えた末に破綻寸前の家を元に戻す、団欒を維持するという思いから鶴乃は魔法少女になりました。このドッペルにはこの願いが反映されているのです。

このドッペルの名前がなぜYU HONGなのかというと、シルクロードで発見された石棺からきていると考えられます。ここでいう石棺は、サルコファガスという上流階級用の棺のことです。サルコファガスには豪華な装飾が施され、棺に納める死体本人のことだけではなく、願いや夢、恐怖が描かれたそうです。YU HONGが納められていたサルコファガスは中国の文化の影響を受けていたらしく、中華の店を営んでいる由比家とも一致します。
つまり、このドッペルはサルコファガスであり、鶴乃の願いが描かれているのです。
ドッペルに豚があるのは金華という言葉が金華ハムとして利用されていることから、豚が贅を尽くした飾りという位置づけなのでしょう。

このドッペルの性質や姿はウワサの鶴乃となったときにもほとんど変わらず、ウワサによる浸食は魔力の根底へは至らないことがうかがえます。




二葉さなのドッペル

二葉さな

ドッペル名:THERESIA

無色透明のドッペル その姿は、審問椅子
称号:無色透明な自分と家族の影

説明
この感情の主は具現化されたこの姿に苦痛と共に満たされた思いをもつ。
このドッペルは椅子が本体ではなく、透明な姿をもつドッペル本体が椅子の上に座り責め苦を受け続けている。
この透明なドッペルは自身から流れ落ちる血液を使い相手を攻撃する。
通常時の左耳から現れる透明なドッペルとは別に、右耳から可視のドッペルが現れた場合、そのドッペルは敵味方の区別なく絶叫と共に振子ギロチンを振り回し大暴れする。

ドッペルとつながる部分


ドッペル発動時のセリフ
「出てきて」

無色透明とは光を透過し、物体そのものに色がないことを意味します。これはさなの願いがそのまま反映された結果です。ドッペル自体は右耳が現れない限り、本体を認識することはできません。

審問椅子は別名拷問椅子ともいいます。審問椅子はドイツで使用されていた拷問道具であり、拷問相手を裸にし、椅子へ座らせます。針が体へ食い込むため、時間が経てば経つほど体への苦痛が増えるという仕組みです。
このドッペルは審問椅子へ深く腰掛け、針が完全に本体へ深く刺さっています。
審問椅子へ腰かける様子は、苦痛を受けたがっているかのようです。さなは自傷行為をどこかで求めていてそんな欲求がドッペルに反映されたのでしょう。
ちなみに自傷行為は心が歪んだ場合によくとる行為とされています。

THERESIAはドイツ語圏で女性名として使用されます。
また、テレジアという名前を持つ有名な人物でマリア・テレジアがいます。マリア・テレジアはヨーロッパ諸国へテレジア法という拷問マニュアルを配布しました。そんな拷問に関係のある「テレジア」という名前がこのドッペルに与えられたのです。
テレジア法は、このドッペルが持つ拷問器具ほど過激な内容ではありません。




深月フェリシアのドッペル

深月フェリシア

ドッペル名:BEATRICE

攪拌のドッペル その姿は、瞼
称号:攪拌された願いの真実

説明
この感情の主はこのドッペルが現れている間、深い眠りに落ち、このドッペルが知り得ることを主が目にすることはない。
このドッペルは主が寝ているうち、虚ろな瞳から流れ出る泥涙ですべての不都合を覆い隠し塗り替えてしまう。
現実を踏み砕くちからを必要としたとき、この写しは目を覚ますだろう。


ドッペルとつながる部分
内臓(へその上あたり)


ドッペル発動時のセリフ
「ク、クゥゥゥ・・・(苦しそうな声)」


攪拌にはかき回すという意味があります。フェリシアの願いは、自分のせいで両親を失った事実をなかったことにしてほしいというものでした。しかし、その願いは事実とは異なった記憶に塗り替えることで叶ってしまいました。現実に偽りの記憶が混ざってしまったという意味から、攪拌という言葉が充てられたと考えられます。

瞼はフェリシアにしろドッペルにしろ、瞼はほぼ閉じた状態です。現実を受け入れない、受け入れられないという意思が現れています。事実、ドッペルとの対話の際にも現実にはまだ触れないと語っていました。今後も、フェリシアの瞼は重いままです。

BEATRICEはイタリア語圏の女性名です。
イタリアの詩人ダンテが作った作品「神曲」に登場する実在した人物をモデルとした人物の名前もベアトリーチェであり、ダンテの心の支えになった人物です。24歳でこの世を去ったベアトリーチェに捧げた作品が神曲とされていて、愛の象徴として描かれています。
このドッペルの名前がベアトリーチェである理由は、このドッペルがフェリシアにとっての心の支えになっているからです。事実を覆い隠し、塗り替えてくれたのは願いから生まれたこのドッペルであり、もし事実を知ったフェリシアは一瞬で絶望してしまうでしょう。
魔女を倒すという決意と、魔法少女を続ける理由はすべて事実を覆い隠された結果から生まれたものです。まさに、ダンテにとってベアトリーチェが心の支えであったように、フェリシアもまた、ベアトリーチェを心の支えとしているのです。




水波レナのドッペル

水波レナ

ドッペル名:CENDRILLON

変身のドッペル その姿は、ガラス靴
称号:変身と不器用な自己否定

説明
この感情の主はその力を自身のため余すことなく行使する。
このドッペルは主が持つ変身能力を何倍にも跳ね上げ、一定時間完全に自分を自分以外の誰か、本人よりも本人らしい理想の他者へと変質させることが出来る。
しかしあまりに完璧なこの変身を多用すれば、やがて本来の自己の姿を見失ってしまうだろう。
尚、このドッペルは主を主の理想とする他者へと変身させるため、それが元来の他者と多少違って見えてしまうことも間々ある。

 


ドッペルとつながる部分
水波レナの影


ドッペル発動時のセリフ
「水波レナはこれで勝つ!」

変身はレナの願った結果得た変身能力から来ています。願いが反映されたドッペルと素直にわかりやすくなっています。

CENDRILLONはサンドリオンと読み、灰かぶり姫を意味します。つまり、シンデレラです。
シンデレラの話は登場人物や時代背景が変えられてさまざまなバリエーションが存在します。しかし、話の構成はどれも違いがありません。
主人公である女性はよくいじめられる人物でした。その後、過程はどうであれ、王子様の探す靴の持ち主がこの主人公であり、最終的には王子様と結婚することになります。
このドッペルの姿にあるガラスの靴もシンデレラのバリエーションのうちの一つです。
シンデレラは普段の汚い姿から、魔法使いの力によって理想のきれいな姿へと変身します。これをきっかけに幸せになるという部分から、このドッペルは理想の姿へと変身したいと願ったレナの想いが反映されているのです。

ちなみに、ドッペルに足が片方しかないのは、幸せになるきっかけが片方の靴にぴったりな足だからです。




十咎ももこのドッペル

十咎ももこ

ドッペル名:ELFRIEDE

自戒のドッペル その姿は、ネイル
称号:自戒と間の悪い愛情

説明
この感情の主は、その力が行きつく果てに、そこまで興味はない様子。
このドッペルは、自らの巨大な指や周囲に飛び回る無数の指を操って攻撃する。
その武器となる爪の全てには丁寧なネイルが施してあり、ドッペルはネイルの具合を過剰なぐらい気にしている。褒めてあげると張り切るが、貶めると異常に落ち込んでしまい、自分を戒めて落ち込んでしまう。
そうなると面倒なので、呼び出したら早く攻撃して貰った方が良い。


ドッペルとつながる部分
左手


ドッペル発動時のセリフ
「空回ってなんかいないっての!」

 

自戒とは自分自身を戒めることを意味し、どんな行為にも慎重になってしまって己のパフォーマンスを十分に発揮できない状態となってしまいます。ももこの場合は男勝りであることを気にして何かと慎重になってタイミングを逃してしまう機会が多い過去があります。そんな自分の行いに何かと慎重になりがちだった過去の自分がドッペルに反映されているのです。
願いのおかげで思い切って行動できる機会は増えましたが、バッドタイミングな体質のせいで何かとタイミングは逃しています。
ネイルは爪を飾り付けるメイクの一種で、古代から爪を飾り付けるという風習があったようです。ネイルが強調されているのは、ももこの女性らしく立ち回りたいという考えが反映された結果です。綺麗と言われればやる気が出ますし、らしくないといわれたら落ち込んでしまうのでしょう。

ELFRIEDEはドイツ語圏での女性名と使用され、妖精、不思議な力を意味します。
ドッペルが不思議な力であることには間違いありません。




秋野かえでのドッペル

秋野かえで

ドッペル名:ZOLA

陣取りのドッペル その姿は、敷地
称号:陣取りは憩いの場を求めて

説明
この感情の主はドッペルに自らの生活圏が侵食されることを恐れ、呼び出す場所はよくよく選ぶようにしている。
このドッペルは、主の意思とは関係なく出現した途端、その周囲を腐り苔で覆いつくし自らの陣地とするうえに、その陣地を拡張することのみを目的としているからだ。
誤った場所で呼び出せば大事な場所でさえも腐り苔で覆い尽くされ元の姿を保ってはいられないだろう。
このドッペルはその陣地内において絶大な力を行使することができる。

 


ドッペルとつながる部分
ほぼなし(主がドッペルに捕まっている状態)


ドッペル発動時のセリフ
「どんくさくっても頑張るの」

陣取りには敷地を自分の目的のために占拠、使用するという意味があります。観葉植物や動物たちのために不都合を生じさせるマンションの敷地を願いによって「日光を取り入れるための場所」として使用するようになってしまいました。まさに、陣取りというかえでの願いの結果があらわされています。

ZOLAは自然主義文学の先駆者 エミール・ゾラから来ています。かえではよく美化した言葉を使わずにありのままの意味の言葉を相手に放ちます。ゾラもまた、社会や人間の矛盾を鋭く突く作品を作っていて、いい意味で「素直に」物事を見る部分が共通します。
このドッペルはまさにかえでの性格の写しであり、主にとって都合の良い生き方を勧めてきました。自然のまま、わがままに、つまり、自由に生きることをドッペルは勧めてきているのです。かえでの願いがわがままから生まれた願いであったように。
ゆえに、このドッペルの名前がゾラである理由は、かえでの性格が素直に写された存在であることを表しています。



梓みふゆのドッペル

梓みふゆ

ドッペル名:HEVELIUS

生業のドッペル その姿は、鳥捕り
称号:生業は平凡な少女からの乖離

説明

この感情の主は現実を生きるため、この一体型ドッペルも含めたあらゆる力を利用する。
地面に落ちた自らの影から「白糖雁(はくとうがん)」と呼ばれる無数の鳥型手下を呼び出し相手を攻撃する。白糖雁はぶつかるだけで対象に甘味を認識させ、一度その味を知ってしまった者は中毒症状を引き起こす。その特性から少量を相手にぶつければ多少の嘘偽りなら許してもらえる。舌と両手がドッペルに変化するため、ドッペルを出している間は喋ることができない。


ドッペルとつながる部分
舌と両手


ドッペル発動時のセリフ
「見ない、わたしは何も」


生業(なりわい)には生活していくための職業、世渡りの手段という意味があり、みふゆが普通の女の子として生きていくための手段がドッペルに現れています。
鳥捕りは『銀河鉄道の夜』に登場する人物です。

HEVELIUSは『銀河鉄道の夜』に登場する鳥捕りの擬人化前の姿、こぎつね座を設定した天文学者 ヨハネス・ヘヴェリウスから来ています。ヘヴェリウスがこぎつね座の生みの親といっても過言ではないため、彼の名前が当てられたのでしょう。
こぎつね座=鳥捕りという表現ができることからもわかる通り、みふゆの立ち位置は物語の主人公であるいろは、仲間のやちよと同等に重要な人物であることがわかります。
物語上の鳥捕りはジョバンニと同じように理想を求めてはいたものの、それをやめてしまいました。鳥を捕ることを生業とした鳥捕りは捕った鳥を販売していますが、それはお菓子でした。ここから、ドッペルの使い魔である白糖雁が生まれたのです。ちなみに雁なのは、こぎつね座がガチョウを加えている姿をしているからです。ガチョウは、家畜化した雁です。

鳥捕りがジョバンニと対面した際には、どこまでも行くといったジョバンニに好感を持ち、どこまでも行ける切符を所持していたことにうらやましく思っていました。そして、鳥捕りはいつの間にかどこかへと消えてしまったのです。

みふゆは魔法少女の真実を受け入れられず、目を背けてしまいました。魔法少女の真実と正面から向き合い続けるいろはに対して、みふゆはどこかうらやましいと思うところが心の中にあったのかもしれません。この立ち位置も、銀河鉄道の夜の構成をリスペクトしたものなのかもしれません。



里見灯花のドッペル

里見灯花

ドッペル名:PENNEN・NOLDE

白昼夢のドッペル その姿は、マッチ売り
称号:白昼夢は宇宙の真理

説明

この感情の主は魔法少女になった後もさらなる願いを成就するために力を欲する。このドッペルは主の寿命を切り分けたマッチを持ち、ひとたび擦って灯りをともせばあらゆる”もしも”が叶うという。マッチの残り本数が主の寿命であり、使い切ることは命の終わりを意味する。強力なドッペルだが、遺言のドッペル同様に自身の寿命を犠牲とするため乱用は禁物。


ドッペルとつながる部分


ドッペル発動時のセリフ
「これが解放のエネルギー」


白昼夢とは現実から離れて願望を空想する状態を指す言葉です。
マッチ売りはマッチ売りの少女を直接的に表しています。マッチ売りの少女のストーリーでは売り物のマッチを擦って火を灯すことで幸せな空想を見るという展開があります。そして、最後のマッチの火が消えた頃には少女は死んでしまっていたという結末です。
このドッペルはいずれは死を迎える病院生活を送っていた灯花が叶えたかった望みを命と引き換えに見せてくれます。しかし見せてくれるのは白昼夢に変わりないという残酷な一面を持っています。

PENNEN・NOLDEは宮沢賢治が残した「グスコーブドリの伝記」の元となったとされる箇条書きにされたメモに登場する人物「ペンネンノルデ」のことです。
このノルデも、ネネムもグスコーブドリの物語ができる途上で生まれた存在です。どちらも作品として世に現れず、グスコーブドリの伝記という作品が完成されなければ存在自体が認知されることもなかったでしょう。
灯花もまた、生き続ければ世界に名をとどろかせるほどの天才ではありましたが、魔法少女となる世界線でなければ、静かに儚く生涯を終えています。
そんな淡くて消えそうな儚い存在という意味も込めてPENNEN・NOLDEの名が与えられたのでしょう。



アリナ・グレイのドッペル

アリナ・グレイ

ドッペル名:OLD DOROTHY

熱病のドッペル その姿は、チューブ
称号:熱病は恍惚となる芸術

説明
この感情の主は自身のドッペルの美しさに見惚れているが、このドッペルの真の姿が隠されていることをまだ知らない。主の背中側にあるドッペル本体から流れ出る病原テンペラと呼ばれる絵の具を固めて偽りの巨大な容姿を作り上げ相手を攻撃する。その際に人間体は絵の具の中に埋もれて完全に表からは見えなくなるため、ドッペルでありながら魔女のような出で立ちを誇る。主はドッペルの外観を確認できないものの、曰く”内側から見ても素晴らしい”らしい。


ドッペルとつながる部分
背中


ドッペル発動時のセリフ
「キター、アリナの美しいドッペル」

熱病が強調されているのは、ドッペルから流しだされる病原テンペラからきていると考えられます。テンペラとは、乳化作用を用いた絵画技法や絵の具をさし、混ぜ合わせるという意味があります。アリナにとっては生と死の表現にこだわっていたため、生と死が混ぜ合わさったものがこの病原テンペラなのです。チューブは、このドッペルの本体であるアリナの背中にいるヤツを示しています。モチーフは絵の具のチューブです。

OLD DOROTHYとは、おそらくオールド・ドロシー・クラッターバックのことを指していると考えられます。オールド・ドロシー・クラッターバックはジェラルド・ガードナーという魔女宗を広めるきっかけを作る人物を魔女の世界へ導きました。ドロシー本人はというと、魔女の中で一番洞察力があり、秘密主義者であるとされています。

マギアレコードでいう魔女宗はまさに「マギウス」です。マギウスを結成する、参加するきっかけがこのドッペルだとするとアリナにとってこのドッペルという存在自体がオールド・ドロシーの役割を果たしたのです。

ホーリーアリナとなっているときは、姿は絞り袋となっています。絞り袋は製菓用の料理器具であり、よくケーキ作りに用いられます。これはアートのキャンパスがケーキへと移っていることを意味し、季節感に影響されていることがうかがえます。



御園かりんのドッペル

御園かりん

ドッペル名:MCDOUGAL

枕探しのドッペル その姿は、モートセーフ
称号:枕探しと怪盗少女の後悔

説明
この感情の主は臆病であるがためにこのような頑強なドッペルを生み出した。失うことを恐れ、得ることに執着する。このドッペルは主同様手癖が悪くあらゆるものをかすめ取る。その対象は自身の仲間にすら及ぶだろう。一度手に入れたものは決して離さないがめつさを持ち非常に欲深い。


ドッペルとつながる部分
右手


ドッペル発動時のセリフ
「これぞ我本質」


枕探しとは、就寝中の人がいる部屋に忍び込み、枕元にある金品を盗む行為のことです。つまり、盗む力を持っていることを意味します。かりんの固有魔法も相手の持ち物を奪うことから、その力が反映されたと考えることができます。
モートセーフとは、死体泥棒から墓を守るために作られた鉄柵のことです。このドッペル自体がモートセーフの見た目をしていることから、盗んだもの、自分のものは死んでも失いたくないという考えがうかがえます。


MCDOUGALはつづりが少し異なりますが、ウィリアム・マクドゥーガルを指していると考えられます。ウィリアム・マクドゥーガルは本能論心理学というものを提唱した人物です。人間の行動の原因は学習ではなく本能だという考えが本能論心理学です。
世間ではどんな行動も本能が原因だというならば、無数の本能があるではないかと批判的な見方をされてしまっています。
本能論では、本能が行動を起こす推進力になっているということを主張しています。

かりんは願いの原因となった祖母と血縁関係にあります。しかしかりんの祖母は手癖が悪く、それが原因で捕まった経歴を持っています。かりんは祖母が大好きで、過去に起こしたことを気にはしているものの嫌いになることはありません。祖母の手癖の悪さがもし本能だとしたならば、かりんの盗む力もまた、祖母から受け継がれた本能です。本能が働いて人を困らせてしまった祖母に代わり、かりんはその本能を利用して人を助ける存在になりたいと願いました。
盗んでしまう行動を本能と決めつけ、本能に従い、人を助ける。このドッペルには、かりんについての本能論心理学が反映されているのです。



竜城明日香のドッペル

竜城明日香

ドッペル名:HENRIETTA

猛進のドッペル その姿は、陣太鼓
称号:猛進と視野狭き思い込み

説明
この感情の主はこのドッペルの力は自らを高めるためのものだと気合十分。太鼓の音を響かせて自らを鼓舞すると、号令を放って仲間を勇猛果敢な戦士にする。ところが、主の粗忽さはドッペルも受け継いでおり、一度発揮されると、仲間たちは自分の意志とは関係なく大失態を演じてしまう。そんな理不尽さから仲間内の評判は散々。粗相の後は自害しようとするところも似ているので、厄介なドッペルである。

ドッペルとつながる部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「はあぁぁ、召喚!」

陣太鼓とは、昔の戦場で兵士たちへの進退の合図として使用されていた道具です。同時に兵士たちの士気上げにも使われていました。
猛進は猛烈な勢いで進撃するという意味があります。つまり、このドッペルは仲間の士気を上げると同時に、猛進させる号令を出すということになります。しかしドッペルによって味方へもたらされるのはダメージの受ける量を軽減させるだけです。どうやらこのドッペルにとっての勇猛果敢とは恐れずに思い切って実行できることと考えているようです。

HENRIETTAはフランス語圏ではアンリエッタ、英語圏などではヘンリエッタと読まれる女性名として使用されています。また、ヘンリーの女性形とされていて、男性形のヘンリーで家長の意味を持つことから、女性の家長、つまり竜真流を扱う竜城の家長を意味します。まだ師範代の身ですが、一人娘であるためいずれ竜城家の家長となるでしょう。



柊ねむのドッペル

柊ねむ

ドッペル名:PENNEN・NENEMU

遺言のドッペル その姿は、死番虫
称号:遺言は夭折して残す物語

説明
この感情の主は残る人生の全てを捧げる。両手の虫頭で物語を食べ、その物語をこの世に具現化させるという非常に馬鹿げた規模の力を発揮する恐ろしいドッペル。
その力の源はただでさえ残り少ない主の命であり、主の残り寿命が短くなればなるほどこのドッペルの力は増していくという。
ただし、力の全てを物語具現の能力に使っているため直接的な攻撃能力は低く、魔女に襲われればひとたまりもないだろう。

ドッペルとつながる部分
髪の毛

ドッペル発動時のセリフ
「対となる僕が」

遺言は死者が最後に遺したとされる言葉であり、その言葉が親しい生きる者、子孫へ語り継がれることもあります。なぜ遺言が性質になってしまうのかというと、ドッペルを発動することはねむが一度死ぬにふさわしいほど負担がかかるものだからです。まさにドッペル発動の際に使用した物語はねむの遺言となり、魔力が続く限り世に残り続けるのです。

死番虫は木材のみならず古書を食べて本としての機能を失わせてしまう害虫とされています。死番虫という名前の由来は、仲間同士の交信方法から由来します。死番虫は仲間と交信を行う際に頭を打ち付ける習性があります。その音が死神が持つ死の秒読み時計を連想させたことが始まりです。
そんな死番虫がこのドッペルとどのように関係してくるのかというと、物語を食べてしまうという点です。
ちなみに、いろはや灯花、ねむのドッペルに共通して存在する髪の毛を吸い込む穴は、「うい」という存在に関する物語を死番虫が食べてしまった結果空いた穴と考えることができます。
このように、このドッペルの扱いを間違えると対象の人物の物語つまりは記憶も食べてしまうという最凶のドッペルになり果てるのです。

PENNEN・NENEMUというドッペル名は「グスコーブドリの伝記」の初稿「ペンネンネンネン・ネネムの伝記」が由来となっています。
ペンネンネンネン・ネネムの伝記の著者は宮沢賢治です。もとは化け物の世界を舞台としていましたが物語を執筆している間にテーマなどががらりと変わり、最終的にはグスコーブドリの伝記として世に出ました。
グスコーブドリの伝記の主人公ブドリはイーハトーブという森を冷害から救うために犠牲となって終わる物語です。
ねむが第一部の終盤で見せた自分が犠牲となる行為はグスコーブドリの伝記にちなんでいたのかもしれません。

魔法少女一覧でマギウスの1人である柊ねむ、物語の重要人物である環うい、和泉十七夜がメインメンバーから離れた位置に登録されている理由は、この3人が「宮沢賢治の残した物語から考え出された魔法少女」だからです。
銀河鉄道の夜を軸として物語を組み立て、登場人物を整理している中でもしかしたら「宮沢賢治に関わる作品から設定を考えよう」という後付け設定として魔法少女一覧に登録されたのかもしれません。



環ういのドッペル

環うい

ドッペル名:SHITORI EGUMO

受難のドッペル その姿は、幸福な彫像
称号:受難は皆の癒しと共に

説明
この感情の主は愛する者達とあらゆる苦難を共にし、自らのものとして背負い込む。そして苦難は宝石へと姿を変え、ドッペルを飾る宝石の量に比例してその強さも増してゆく。
ただし動けないので攻撃は全くかわせず、盾と剣を持っているが装飾品なので武器としては使用できない。

ドッペルとつながる部分
両腕

ドッペル発動時のセリフ
「また出てくる」

受難は苦しみや災いを受けることを意味し、ういが手に入れた回収の能力が反映された結果でしょう。ういは魔法少女であるときも、そうでなかったとしても呪いや災いを背負い込もうとします。
幸福な彫刻というのは「幸福な王子」というオスカー・ワイルドの作品に登場する人物を指します。
王子の像はいつもそばにいてくれるツバメと一緒に困っている人たちへ持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくというストーリーです。
最終的には何の価値も無くなってしまった像と、寒さに凍えて死んでしまうツバメが残ってゴミために捨てられてしまうという悲しい結末となっています。(ただし最終的には天に召される)

ういの誰かのために自分が苦しむというどこか自己犠牲な考え方とツバメをモチーフにした凧を武器にしているのは、「幸福な王子」の影響を強く受けていることを意味します。

また、第一期マギレコキャラの中で唯一魔女の状態が公開されているのがういです。
ドッペルは感情の写しではなく、魔女の写しであると多次元目録では主張し続けています。その法則がしっかりと現れています。
魔女の名はドッペル名と同様であり、性質が「○○のドッペル」の○○に入る言葉となり、「△△の魔女」の△△へドッペルの姿となる単語が入ります。

しかし、ういの場合は「幸福”な”魔女」と記載されることとなります。
これは、本来ならば「幸福な彫像の魔女」となるはずが”半魔女である”ということが原因で「幸福な魔女」という中途半端な状態となってしまっているのです。

ちなみに使い魔の名前はオスカーであり、幸福な王子の作者の名前であることもわかります。

SHITORI EGUMOについては”魔女文字まとめ“で説明しています。



和泉十七夜のドッペル

和泉十七夜

ドッペル名:CATACOBM

解体のドッペル その姿は、竈獅子
称号:解体と平等たりえぬ怒り

説明
この感情の主がもつ冷静さとは裏腹に、このドッペルは底知れぬ怒りに燃えて全てを噛み砕き寸断する獅子の姿を持ち、一切の不当を許さず、すべての不合理を解体する。その性格は苛烈そのもので、特に神浜在住というだけで即解体対象となってしまうため、発動時は味方を巻き込まないよう注意が必要となる。このドッペルを使い続ければ、些細な不平等も許せなくなってゆくだろう。主はこのちからを持て余しているが、獅子に半分同感している。



ドッペルとつながる部分
顔、手


ドッペル発動時のセリフ
「これ以上の不条理は許さん」



このドッペルの指す解体は「第三者の手によって人間集団を解散させること」を意味します。十七夜の考えている神浜の破壊とは、東へ偏見をもたらした神浜という都市の人間集団をめちゃくちゃにし、再編を目指すという狙いがあります。
ストーリーでは破壊と表現してはいますが、神浜市そのものを無きものとしたいわけではありません。

竈獅子は”かまじし”と読み、宮沢賢治の作品「猫の事務所」に登場した存在であり、役所を解体するという役割を持っています。猫の事務所とは、猫たちによって構成された役所を舞台としていて、その中の一匹であるかま猫は他の猫たちからいじめられていました。しかし、かま猫は役所を支えるために一生懸命働きます。しかし、仕事を風邪で休んでしまったかま猫はそれだけが原因で仕事を取り上げられてしまいます。この様子を見ていた獅子がこの役所を解体してしまいます。
この解体した獅子が竈獅子と呼ばれているのです。神浜のかま猫的立場にある東側の人々が西側の人間によって仕事を取り上げられてしまったとき、十七夜はこの竈獅子のように神浜という集団を解体するのでしょう。

また、竈獅子は竈神を表しているとされていて、竈神は二つの領域の媒介、秩序の更新を行う役割を担っているとされています。


CATACOBMはカタコンベと読み、地下にある墓地のことです。昔、ローマで大量の遺体を埋めたくても土壌汚染の問題が起きてしまうことが問題となりました。そこで考えられたのが、地下にもともと存在した空洞を墓所として扱い、何百人という死者の遺体を洞窟の壁へロッカールームのように積み重ねていくことでした。その結果生まれたのがカタコンベです。
カタコンベは古代キリスト教徒の礼拝場という役割を持っていた時期があります。このころの古代キリスト教徒はローマ帝国で迫害されていました。

神浜で虐げられている東側の魔法少女達にとって、十七夜という存在は心のよりどころでした。また、本人も東側の魔法少女たちを背負っていると考えています。このドッペルは、東側の魔法少女にとってのカタコンベでもあるのです。



八雲みたまのドッペル

八雲みたま

ドッペル名:TOTENTANZ

メメントモリのドッペル その姿は、花弁
称号:メメントモリは学び舎の中

説明
この感情の主は、自分の環境を恨み、すべてを滅ぼそうとする。このドッペルは万物に等しく訪れる死を忘れず、舞い散る花弁全てを覆い隠し、白い手袋で少女たちを優雅にエスコートする。主と同様に直接的な攻撃方法を持たないが、万物の最期と共にあるその力はあまり恐ろしく、花弁で覆い隠したすべての魔力は朽ち果て、後には何も残らない。このドッペルを求めれば求めるほど、主の左腕はやがて完全に一体化するだろう。



ドッペルとつながる部分
左腕


ドッペル発動時のセリフ
「見たことを反省なさい」



メメントモリとは、ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味を持つ言葉です。神浜を滅ぼす存在になりたいというみたまの願いは死に関わる力をみたまへ与えました。
花弁は散華を意味しています。花弁はいつかすべて散ってしまい、散華の状態となります。散華は死を意味し、花弁が散ることは死に近づくことを意味します。



TOTENTANZはトーテンタンズと読み、死の舞踏を意味します。死の舞踏は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるというフランス詩が起源とされています。その内容は、死は貧富の差、身分、人種、性別などあらゆる区別に関係なく訪れ、最終的にすべては無に統合されるというものです。

みたまがマギアを放つ時に発する一緒に溶け込むという言葉には、皆同じ状態「無」へと変わるために溶けてしまおうという意味があります。溶けると原型がなくなり、区別がなくなります。すべてが同じ、すべてが自分であり、すべてが皆である。複数の個体が一つの意識を共有する状態がみたまにとって望ましいことなのです。
簡単に言えば、キュゥべえと同じ状態になるか、円環の理に導かれるかのどちらかです。神浜には円環の理が作用しないため、みたまの力は最終的に神浜の人々をキュゥべえと同じ状態にしてしまうのでしょう。


みたまは、神浜という集合体を「無」に統合する存在となったのです。



天音姉妹のドッペル

天音月夜

ドッペル名:DUM

隔絶のドッペル その姿は、テラリウム
称号:隔離は望まぬ妹との別れ

説明
この感情の主は、自身の起源や感情に囚われず、理解者たる自らの半身に依存する。このドッペルによって、自分たち以外のすべてから隔絶した二人に、この世あらゆる変化は影響を及ぼすことなく、この小さな半星に存在する二人は、お互いしか必要としない。
このドッペルが出現することであらゆる物質現象と時間はシャットアウトされ、身の安全は保障されるが、その副作用として自分たち以外の他者の記憶が消えていってしまう。

ドッペルに変化した部分
ほぼなし(主がドッペルに捕まっている状態)

ドッペル発動時のセリフ
「異論は認めません」

 

天音月咲

ドッペル名:DEE

無縁のドッペル その姿は、アクアリウム
称号::無縁は幾年の姉との時間

説明
この感情の主は、自身の環境や境遇に囚われず、理解者たる自らの半身に溺れる。このドッペルによって、自分たちを自分たち以外の全ての因縁から切り離された二人に、どれだけ意見を述べて高圧的な態度をとっても、この小さな半星に存在する限りお互いの間隔しか信じれないので、理解されることはない。
このドッペルが出現することで多様な価値観はシャットアウトされ精神を安定させる効果を持つが、その副作用として社会的倫理観も希薄になってしまう。

ドッペルに変化した部分
ほぼなし(主がドッペルに捕まっている状態)

ドッペル発動時のセリフ
「うちだって頑張ってるんだから」

 

テラリウムは動植物を飼育、栽培する際に用いるガラス容器のことです。月咲との二人だけの空間としてテラリウムになっているようですが、二人の様子が外部からは丸見えとなってしまうことは考慮していないようです。
また、アクアリウムは水生生物を飼育する飼育設備のことです。
天音姉妹がそろうと陸も海も存在する二人だけの世界が完成するという仕組みです。どれほど完成された二人だけの世界が出来上がっても、やはり外から見られてしまうことは考慮していないようです。


隔絶は遠く隔たっていること、かけ離れていることを意味し、月咲と二人で願ったお互いの生まれからの隔絶に通じるものがあります。
無縁とは、縁のないこと、関係のないことを意味します。月夜との関係以外は縁がない、関係ないと考えていることがこのドッペルに反映されています。


それぞれドッペルの名前であるDUMとDEEはマザー・グースの一つとされている童話「Tweedldum and Tweedldee」のTweedlに続くDUMとDEEから来ています。この話は鏡の国のアリスで使用されています。
この話の内容としては、兄弟らしき二人の人物がおもちゃのガラガラをめぐって争うという滑稽な内容となっています。
この話の内容になぞらえて、「まるでトゥイードルダムとトゥイードルディーのようだ!」という言い回しがあります。この言葉は、お互いに相争いながらも実際にはよく似ている二人の人物を指すときに使用されます。
魔法少女になる前の二人はお互いの育ちの違いで言い争ってはお互いを恋しく思っていました。育ちと境遇に邪魔をされていましたが、魔法少女になって叶ったことは二人の間だけでの自己完結にとどまり、周囲は何も変わっていません。
そんな二人には第三者から見るとTweedldum and Tweedldeeの内容を見た時の感想と同様の「勝手にやってろ」という言葉を発してしまうでしょう。
しかしその言葉は二人にとっては隔絶された、無縁のことであるため気にも留めないでしょう。



紅晴結菜のドッペル

紅晴結菜

ドッペル名:TIRACCHANA

折檻のドッペル その姿は、獄卒
称号:折檻の痕は友が眠る胸の中

説明
この感情の主は、内に溜め込んだ感情を支配できず、膨れ上がった感情に取って代わられるように支配された。その影響で、本来生じるはずだったドッペルは感情を表す赤子の肉芽に支配され、成長を助けるようにエネルギーを常に吸われている。その肉芽は理性の欠片もない本能の塊で、気にくわないものを感情のまま潰し、自由にエネルギーを食むだけの存在。言葉で説明しようとするときもまれにあるが、洞窟から空気が漏れるような声しか出ず、何かが伝わることはない。
満腹時はご機嫌だが、少し食べ過ぎると口からエネルギーを吐いてしまうらしい。

 

ドッペルとつながる部分
ほぼ全身


ドッペル発動時のセリフ
「感情に飲まれる・・・」

 

折檻は厳しく叱ったり、体を痛みつけて懲らしめるという意味や、相手に過ちや悪い点を改めるよう強く忠告するといった意味があります。もともと結菜の願いは厳しすぎる校則を改めさせたいという考えから生じたものであり、神浜への怒りを覚える前から折檻に関わる思いは抱いていました。
しかしキモチ争奪戦時の折檻させたい対象は、神浜の魔法少女へ変わってしまっているでしょう。
獄卒は地獄で亡者を苦しめる鬼、義理や人情を解さない人をののしる際に使用する単語です。キモチ争奪戦の結菜にはどちらも当てはまるでしょう。このドッペル自体が怒りに飲まれた後の姿らしいので、本来の姿はもっと別のものとなっていたでしょう。


季節イベント等でドッペルの姿が変わるものは多々いますが、性質までもが変位するのは稀な現象です。つまり、「折檻」という性質は願った際に確定したものでキモチ争奪戦前も後も変わっていないと考えられます。

 

TIRACCHANAは仏教において「畜生」を意味します。畜生は人間以外の生物を指す言葉として用いられ、前世で行った悪業の報いとして生まれ変わる世界に畜生道があります。
畜生の世界は弱肉強食で他人を食さなければ生きていけない、後先考えず欲のままに行動するといった生き方をする生物が蔓延っています。
魔女が少ない時期の二木市はまさに魔法少女にとって畜生道な世界でしたが、そんな畜生道な世界になるよう誘導してしまったのはキュゥべえを追い出そうとした結菜自身でしょう。この時から結菜は理性的な判断が鈍くなっていってしまいます。



煌里ひかるのドッペル

煌里ひかる

ドッペル名:MERKAVA

鈍重のドッペル その姿は、戦車
称号:忠勤は死地へ共にゆく馬

説明
この感情の主は他者のためにあることを至極の喜びだと感じ、自身のことになると怠惰を極めるので、己の分身である存在を引っ張ることに複雑な気持ちを拭えない。
このドッペルは主の力を原動力にしているため、自ら進んで行動することはできないが、主によって投げられると、その重厚かつ頑強な体を打ち付けて、たちまち相手を潰してしまう。ドッペル自身は人の役に立てることに喜びを感じているので、抱擁するつもりで飛び込んでいるのだが、投げられると体から巨大な刃が出てきてしまうので、いつも失敗だと思っている。

 

ドッペルとつながる部分
背中


ドッペル発動時のセリフ
「あの人を奪わないで」

 

鈍重とは、動作や反応が鈍く、のろい感じがすることまたは雰囲気や状態などがけだるく不活発なさまを意味します。ひかるに対しては後者が当てはまります。
戦車は現代で言うと機械的な戦闘に特化した車両のことを意味しますが、古き時代で言うと馬などが引く戦闘向きの馬車(チャリオット)も戦車と呼ばれています。
これはドッペルの見た目からすると、馬車の方が当てはまります。

MERKAVAはヘブライ語で騎馬戦車を意味し、エゼキエル書という旧約聖書に属する書物に登場する神の戦車を意味するメルカバ―に由来するとされています。

性質も、名前も騎馬戦車に関係のあるものとなってはいますが、ひかるはプロミスドブラッドの従者であり、馬であると考えています。しかしながらドッペル自体はそんな馬に引かれなければ何もできない馬車です。

そう、ドッペルに映し出されているのは夢中になれるものを見つける前のひかるです。原動力となるものがなければ見る見るうちに歩みが遅くなり、最終的には止まってしまう、つまりはあきらめてしまうということを繰り返してきました。
しかし今は結菜という夢中になれる存在を見つけたため、原動力が弱まることはありません。
その原動力となる存在が消えたとき、生きるという歩み自体も止めてしまうかもしれません。



笠音アオのドッペル

笠音アオ

ドッペル名:HALIFAX

悪果のドッペル その姿は、叢雲
称号:悪果はゲームで逃がせない

説明
この感情の主は非情の皮をかぶった有情の者。やむを得ず他を傷つけることへの自責が拭えず、その苦境から逃れる為に再び傷つけることで、負の連鎖を繰り返す。
このドッペルはそんな主を捕らえると、苦しみから解き放つために首を刎ね、その瞬間だけ責任を取るという解放感を与える。だが頭が良い主は、全てが自己満足のまやかしであることに気付いて懊悩すると、解放されない自責を固めて一つの巨人となり、行き場のない感情を八つ当たりという形で解放しようとする。
こうして罪は断じられることも散ることもなく、群がり続けるだろう。

 

ドッペルとつながる部分


ドッペル発動時のセリフ
「これが私の報い」

 

悪果とは悪い報いを意味し、悪いことをしていると気づきながらも悪い行いをするアオにいずれ訪れる結果をこのドッペルが象徴しているのです。ドッペルは少しでも気持ちが軽くなるようその報いを受ける機会を与えますが、残念ながらアオにはまやかしな行いだと気づかれてしまってるようです。

叢雲とは群れのように集まった雲を意味し、ここでいう雲はアオの背負う罪のことを表しています。行き場のない気持ちを八つ当たりで解消するという罪が新たな罪を呼び、すべてが解決するまで罪という雲は群れの規模を拡大していくのです。

HALIFAXとは地獄に落ちろ!という意味を持つ慣用句「GO TO HALIFAX!」に使用される単語です。HALIFAXは地名として使用されていますが、その土地では軽犯罪でも首を刎ねられていたという歴史があることから慣用句として使用されるようになりました。
このドッペルはまさに罪を重ね続けるアオに対して「地獄に落ちろ!」と語りかけているのでしょう。しかしドッペルが与えるのは首を刎ねるまやかしのみ。
アオを楽にはさせず、ただただ精神的な苦しみを味わい続けさせるこのドッペル自体が、アオに対する報いの権化なのです。



大庭樹里のドッペル

大庭樹里

ドッペル名:LAKEHURST

奨励のドッペル その姿は、飛行船
称号:奨励する自由な暴虐は愛

説明
この感情の主は、身と心の内に溜め込んだ膨大なエネルギーを今にも発散させようとしているドッペルに対し、自らも盛大なエールを送りながらドッペルと共に鬱憤を晴らそうとしている。
このドッペルは自制を悪とするほど、思ったことをすべてやることを奨めており、自らも一切の我慢をしない。それは食や睡眠のみならず、突発的な破壊衝動まで及び、主を連れながら周りを破壊して回る。もしも止めさせようと外から圧力をかけようものなら、不満が限界を超えて爆発し、周囲の全てを消し飛ばす。

 

ドッペルに変化した部分
背中に背負ってるボンベ


ドッペル発動時のセリフ
「自由にやれよ」

奨励とは良いこととしてそうするようにと人に奨めることを意味します。樹里の場合は「そんな溜め込まないで早く爆発しちゃいなよ」、「だめ!爆発しちゃったらお父さんに迷惑がかかっちゃうよ」という天使と悪魔のささやきがこのドッペルが抱える奨励の内容となります。もちろんドッペルは爆発することを奨励しています。
ドッペルには、自制心を願いで手に入れながらもストレスを絶えず発散したいという樹里の心情が反映されたのでしょう。
飛行船はガスを利用して浮力をつけ、空を飛ぶ乗り物です。このドッペルは樹里の背負っているボンベが姿を変えたものとなっていて、その中には樹里が溜め込んだストレスやイライラがエネルギーとなったものが込められています。飛行船は過去に水素を利用していた際に爆発事故を起こしています。このドッペルが溜め込んでいるものも可燃性であるため、デリケートに扱わないと爆発してしまうのです。主の癇癪のように。

LAKEHURSTはヒンデンブルク号という飛行船が爆発し、炎上する事件が起きた飛行場がある行政区画の名前です。
ヒンデンブルク号の再現をしてしまいそうな不吉な名前です。



時女静香のドッペル

時女静香

ドッペル名:TARA

安寧のドッペル その姿は、千手
称号:安寧をもたらす日の本の刃

説明
この感情の主は、滅私と言えるほど己の人生を誰かのために捧げており、ドッペルも同じような精神を持つことから、両者は深く繋がり合っている。
このドッペルは主が敵視するものに対して敏感に反応し、不要とあらば相手に利他の素晴らしさを理解してもらうために、暴力をもって教え込もうとする。教えを受ける者は酷いケガを負うことになるが、そのドッペルの姿は黄金に輝いて美しく、繰り返される教えの暴力も芸術的であることから、痛みを忘れるほど惚れ惚れとした気持ちになり、知らない間に虜になってしまうという。

 

ドッペルとつながる部分
両足


ドッペル発動時のセリフ
「私は守りたかった」

安寧は世の中が穏やかで安定していることを意味し、日の本の現状維持を願った静香の能力と一致するようなドッペルとなっています。
千手は千手観音の略です。千手観音に千本腕があるとされているのは、どんな人物でも漏らさずに救済しようとする観音の慈悲と力の広大さを表しているためとされています。
しかしこのドッペルは相手に利他的思考を教え込むのが救いだと思い込んでいるため中々に危険なドッペルとなっています。

TARAは多羅菩薩のことであり、三十三観音の一尊です。
サンスクリッド語でTARAは瞳を意味し、観音様の瞳から放たれた慈悲の光から生まれた仏様とされています。TARAはサンスクリッド語で「あらゆる苦しみから救う」という意味もあることからあらゆる生き物を救うともされています。
相手を救う神々しい存在として、ドッペルへこの名が与えられたと思われますが、その救いが「利他的思考を教え込むこと」ということであって真の救いかどうかと聞かれればそうではないという回答が正しいでしょう。



広江ちはるのドッペル

広江ちはる

ドッペル名:OAJI

より抜きのドッペル その姿は、袖搦
称号:より抜きも不要な悪の世は

説明
この感情の主は悪を暴き、捕縛するための能力だと胸を張るが、その実態は主の代わりに淵へ沈める6人の生贄を求めるドッペルである。
相手がどれほどうまく隠れようと、その頭部の灯りはすべてを白日の下に晒しだし、三又の鉤爪で沼の底へと引きずり込む。沼底へ引き込んだ者の数が増えれば増えるほどこのドッペルの力も増すが、それはやがて主に降りかかる災いともなるだろう。
しかしながら、それでもこのドッペルは主へ害を為す者を排除するための力を溜めることに躍起になっている。

 

ドッペルとつながる部分
左足


ドッペル発動時のセリフ
「私の願い、返して」

 

より抜きとは、多くのものから優れたものを抜き出すという意味があります。このドッペルの行動原理によると、特定の6人を沼底に沈めようとしていて、ただ6人沼底に沈めればよいというわけではないことがわかります。
特定の力を持つものを引きずり込まなければ、ドッペル自体は満足しないのでしょう。

袖搦(そでがらみ)とは、江戸時代に使用された三つ道具と呼ばれるうちの一つです。それは罪人をとらえるために釣り針のような棘がいくつもついた長柄の道具であり、一度捕まるとほぼ抜け出せない形をしています。

OAJIは「お阿字」と解釈でき、静岡県に存在する生贄伝説の登場人物から来ています。その名は「三股淵」と呼ばれていて、三つの川が合流する地点に大蛇が住んでいて、近くにある里は大蛇がもたらす災いに困っていました。
そんな大蛇の怒りを鎮めるために12年に一度生贄を与えるという習慣がその里にはありました。
そんな里の近くへ阿字を含めた7人の巫子が通りかかり、宿で引かされたくじによってお阿字が生贄に捧げられることになってしまいます。
お阿字を犠牲にできないと思った6人は三股淵に身を投げ、お阿字は生き残ることができました。しかし、お阿字は6人を殺してしまった責任感からか、自ら身を投げてしまいます。

ドッペルの説明にある6人という生贄の数は三股淵の話に大きく影響を受けた内容であり、今後登場する時女一族の総人数はちはる含めた7人になるという意味を表しているのかもしれません。



土岐すなおのドッペル

土岐すなお

ドッペル名:MARITA

諦念のドッペル その姿は、サシガメ
称号:諦念は友殺しの過去から

説明
この感情の主は、己から出てきた鋭利かつ獰猛な存在を目の当たりにして、その内に自身の過去を投影しながら、悔いるように見つめている。
音を立てることなく俊敏に移動するこのドッペルは、ターゲットに気配を感じさせずに接近すると針のような口を鞭のようにしならせて串刺しにし、相手の生命を吸収してしまう。手こずるような相手でも、忍んで近付いては4本の腕を使って弱らせてから吸い取ってしまい、ドッペルの主はただ赤く染まる水晶を見つめながら、止めることのできないドッペルに振り回される。

ドッペルに変化した部分
下半身

ドッペル発動時のセリフ
「過去の闇が私に」

諦念とは何かを悟ったように迷いがなく、あらゆることを諦めているという意味があります。
すなおにとって何もかも諦めていた時期というのは、神子柴のもとで暗殺を行っていたころです。抗っては家族に被害が及ぶという状況下の中、何もかもを諦めていたころのすなおのことを表しています。
サシガメというのは肉食性のカメムシのことです。ドッペルの見た目通りな細長い見た目をしていて、エサとなる昆虫へ毒を撃ち込み、吸血するための細長い口があります。
人へ刺す事例もあり、刺されると蜂に刺されたときほどの痛みがあるといわれています。
なぜサシガメなのかというと、素早く忍び寄っては殺した魔法少女の数だけすなおの心が血に染まっていく様子を吸血としてとらえているからでしょう。

MARITAはイタリア語圏で使用されている女性名であり、その語源はマジョラムという冥福を祈って死装束へ使用されるハーブです。
また、「MARITA」という映画があり、キューバ革命時にキューバの議長だったカストロへ恋したマリタが主人公である映画です。
内容としては、CIAに勧誘されたマリタは夫であるカストロを暗殺することになって何度も暗殺を企てますが結局は殺せずに失敗してしまいます。CIAの武装集団へ入隊するも、負傷したことを理由にCIAを離脱したとされています。

この、身内を暗殺する立場でありながら自らの意思が働いて何度も失敗してしまうという点が過去のすなおと一致しているためMARITAというドッペルの名が与えられたのでしょう。


 


藍家ひめなのドッペル

藍家ひめな

ドッペル名:SCYLLA

恒久のドッペル その姿は、肖像
称号:恒久の情愛に溺れる暴君

説明
この感情の主は、ドッペルに対して不思議な親近感を覚えながらも、直視すると心を見透かされそうで怖いという複雑な感情をいだいている。それに対してドッペルは、主を悩ませる感情から解放するために体と繋がった球体の中で眠らせてしまうと、主の欲求を満たすために自分の理解者にならない相手をことごとく潰そうとする。ちなみにドッペルの体は主の心を映した仮初めの姿で、本人の想いによってその姿が変化し、今は恋人の姿を求めるつがいの狼の姿をしている。仮初めの姿を求めるつがいの狼の姿をしている。仮初めの姿は球体と輪を破壊しない限り再生を繰り返すので、注意が必要。

ドッペルに変化した部分
頭部

ドッペル発動時のセリフ
「邪魔しないでよ」

恒久は、永遠に変わらないという意味です。この恒久はひめなの周りに何を言われようとヒコ君へのキモチは忘れない、手放したくないという想いに対しての言葉でしょう。この想いに対してドッペルはその恒久を邪魔しようとする者を排除する役割を担っているようです。
肖像はある人物の外観を芸術的な作品に落とし込む行為のことです。このドッペルの場合はひめなの心を映して様々な姿に変化するためでしょう。

SCYLLAはギリシャ神話等に登場する怪物の名前で、犬の子という意味があります。
一途に男性を愛するという点ではメガラ王女としてのSCYLLAが当てはまるようですが、周りに恋愛が邪魔されたり否定されるといった展開は特にないです。ちなみにギリシャ神話では誰かに一途に恋をするといった存在ではなかったようです。
恐ろしい女性の名前として使われただけかもしれません。

 



神楽燦のドッペル

神楽燦

ドッペル名:9DAIME NUE

停滞のドッペル その姿は、セキュリティシステム
称号:停滞の枷に囚われる幼心

説明
この感情の主は自ら育んだものの変化を決して認めない。
そんな主の心情に呼応して、このドッペルは周辺のつぶさな変化をキャッチするために、道ばたにある石ころの動きや針が落ちるような小さな音にも気づくことができる能力を発揮している。自然現象で起きた変化であれば、静かに手入れをして元に戻すが、誰かが意図的に行ったことであれば決して許さない。付属している面を放って追跡すると、必ず相手を捕捉して罰を与える。弓矢などで攻撃されるのが苦手で、主は自身が飛び道具を使うので複雑な気持ちらしい。

ドッペルに変化した部分
頭部

ドッペル発動時のセリフ
「私が、守らなきゃ」

停滞は物事が滞って進歩しないという意味があります。燦は小さなころの記憶を大事にしていて、自分が変わるきっかけを作ってくれた祭りを大事に思っています。そんな祭りがなくなることを今になっても拒みつづけ、昔のままでいたいと思っています。そんな考えがドッペルに反映されたのでしょう。
セキュリティシステムは、危険なものから守るためのシステムです。
とはいえ、このドッペルは燦にとって危険と感じるものである大事なものの変化に対してのセキュリティです。いったいどこまでの変化ならば許容してくれるのでしょうか。

9DAIME NUEは、半田山車祭りで出てくるからくり人形師の九代玉屋庄兵衛が作り上げた鵺のだしのことを言いたいのではないでしょうか。
なぜこれがチョイスされているのかは、半田山車祭りを青年会が一生懸命守ろうとしている動きがあるからではないでしょうか。
しかし火祭りとは関係がないです。



遊狩ミユリのドッペル

遊狩ミユリ

ドッペル名:OXFORD

赤裸々のドッペル その姿は、靴
称号:赤裸々な欲望は童心の名残り

説明
この感情の主は、自分の周りに生えだした無数の足に圧迫されて呆然としている。しかし本人自身はまんざらでもないらしく、幸福すぎるがゆえに放心しているようだ。一方のドッペルは、自分に合う足を探しているものの一向に見つからず、自分の中に廃棄する足ばかりをためている。それでも運命の足に出会えるのはあきらめていないので、悔しくて癇癪を起すことが度々あり、高く天空に跳上がり落下して地面を踏んでストレスを解決している。高く上がれば上がるほど、ストレスが解消できるらしい。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「意識が・・・」

 

赤裸々は包み隠さないで、そのままにという意味を持つ言葉です。人目を気にせずありのままに足を求めたいというミユリの想いが反映されてか、ドッペルは赤裸々に運命の足を求め続けます。
靴はドッペルの見た目通り足を保護するために履くものですが、ミユリの脚フェチ対象はどちらかというと太ももからすね辺りにかけてまでの気がしないでもない。

 

OXFORDはイギリスにある地名です。オックスフォードシューズというものが存在していますが、スポーツとは違って正装に合う靴とされています。



宮尾時雨のドッペル

宮尾時雨

ドッペル名:AZTEKIUM

隔意のドッペル その姿は、刺座
称号:隔意して縋る小さな自尊心

説明
この感情の主は、過剰に周囲を警戒する割に自身で対処する手段を持たないので、己から出てきた存在に守ってもらうことに抵抗がない。
このドッペルは鋭利なトゲと固い表皮を持ち、主に似て自分を守ることに必死。攻撃的ではないが、ストレスを受ける度にひとつずつスイッチが入ってタガが外れてゆき、全てがONになると有無を言わさず、電磁レールガンで障壁を消し飛ばす。
主の相手を忌避(きひ)しようとする感情と、このドッペルのストレス対象が一致したとき、その命中率は飛躍的に向上する。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「ぼくはもう見ない」

隔意とは心に隔たりがあること、打ち解けられない気持ちを意味します。時雨にとっては心に隔たりがあるという意味が当てはまり、守ってもらいたいと思いながら誰とも距離をとってしまいがちです。
刺座はサボテンの針の根元にある綿毛のような場所のことです。刺座は多肉植物かサボテンなのかを見分ける指標となり、これがあるものはサボテンとして分類されます。サボテンはこの刺座がある場所から棘が生えています。

AZTEKIUMは希少なサボテンの属名であり、AZTEKIUMの形状がアステカ(AZTEC)文明時代の彫刻に通ずるものがあったため、AZTEKIUMという属名が与えられたとされています。
AZTEKIUMは棘が生えたとしてもすぐに抜け落ちて刺座だけとなり、さらにはサボテン科の中でも最も成長が遅いとされています。成長が遅いうえに自衛力がほとんどないこのサボテンは主である時雨の在り方を表しているかのようです。
そんなサボテンに見合わないレールガンは、時雨が好きなプログラミングが主を守るために具現化したものなのかもしれません。



安積はぐむのドッペル

安積はぐむ

ドッペル名:ABIGAIL

虚勢のドッペル その姿は、リバーシブル
称号:虚勢は承認欲求の裏返し

説明
この感情の主はドッペルという存在を知りながらも、心の内から現れた自身の写しに驚愕して、腰を抜かしてしまっている。
そんな主のドッペルは、魔女に対して力を発揮する主とは真逆に、魔法少女に対して強い殺傷能力をもつ内皮を持っているが、性格は主と似ているため、発現したのが戦の場だと、すぐにパニックになってしまって防御姿勢をとってしまう。
ちなみにドッペルが出ている間、主は怖くて目を瞑っているので、自身の写しをしっかりと見たことはなく、気が付いたら敵が消えているのでドッペルに感心している。

ドッペルに変化した部分
両手

ドッペル発動時のセリフ
「ダメだな、私って」

虚勢とは見せかけの威勢のよさを表す言葉であり、何を頑張ろうと意気込んでも内側ではなにに対しても怖がってしまうはぐむの性格が反映されています。
リバーシブルは表と裏両方でも衣装として成立することを表す言葉として使用されたり、元に戻せるという意味もあります。これは魔法少女の時とは真逆の力をドッペルで行使できることを表しています。魔女となる際は希望から呪いの魔力へと変わる反転化が行われるのですが、はぐむの場合は殺傷能力が高くなる対象もきれいに反転化されるようです。
はぐむのドッペルと対峙した魔法少女に、命の保証はできません。

ABIGAILは英語圏の女性名として使用され、ヘブライ語の「父は喜んでいる」という意味が由来です。また、侍女という意味でも使用されます。
今回の場合は女性名というだけで使用された可能性があります。



氷室ラビのドッペル

氷室ラビ

ドッペル名:CUAUHTITLAN

仁恕のドッペル その姿は、祭壇
称号:仁恕は凡てを土壌に返す

説明
この感情の主は、同族を悲しみと苦しみのない無の世界に送ろうとしてくれるドッペルと、共に憐みながら祈りを捧げ続ける。感受性の強いドッペルは、悲しみや苦しみを感じ取ると、反射的に対象を救うための行動をとる。それは、ドッペルの血生臭いことを嫌うという好みと、自然という感情を必要としない世界に返してあげるという慈愛が入り混じったもので、口から放たれた豊穣の光を浴びた者は、すぐさま灰となって大地の肥やしになる。ちなみにどの角度から見ても同じ姿にしか見えず、主も背後を見たことがない。

ドッペルに変化した部分
両手

ドッペル発動時のセリフ
「もう、救われない」

仁恕は情け深く、思いやりがあるという意味の単語です。この単語はラビの願いとは関係ないです。湯国市での魔法少女への待遇を受けても人へ危害を加えずただただ彼ら、彼女らの罪を許すというラビの性格がドッペルへ反映された結果でしょう。
祭壇は祈りを捧げる先として使用されている単語だと思われます。別に願いを叶えるための生贄を求めるという働きはないようです。
生贄は取らないですが、救いたい存在を灰にしてしまう恐ろしいドッペルです。

 

CUAUHTITLANはメキシコ州にある自治体名で、ナワトル語で木々の間という意味がある言葉のようです。
クアウティトラン年代記というものが存在し、トルテカというケツァルコアトルを信仰していたとされている人々のことを記した書物だとされています。ドッペルの名前も見た目もここから取られていると思われます。



三浦旭のドッペル

三浦旭

ドッペル名:MARGUERITE

保障のドッペル その姿は、砦
称号:保障の内に求めし安穏

説明
この感情の主は、自分の趣味や好みなど、個人的なことに踏み込まれることを拒む。堅い外殻で覆われたドッペルは、周囲の情報を隔てて強制的に距離を作る主のプライベートスペースとなっており、もしも邪魔な者がいれば、主が外にいる者を狙撃して排除できるような機構を上部に持ち合わせている。ところが、ドッペル自身も干渉されるのを拒む性質なので、話しかけられたり触れようとする者がいたら、慌てて相手が形を無くすまで暴れて気持ちを落ち着かせようとする。その時中にいる主は、シェイクされてボロボロになってしまうらしい。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「おじいちゃん・・・」

保障は地位や権利に害が及ばないよう保護して損害を与えないという意味があります。これは旭が願った際に抱いていた自分の好きなことに干渉されたくないという想いがドッペルに反映されたためでしょう。そんなドッペルは旭が外部から干渉されないように配慮した体のつくりをしていますが、性質的には他人を拒むようになっています。
砦は外部から内部を守るために用意されるもので、ドッペルの体のつくりをそのまま表しています。

MARGUERITEはフランス語圏で使用される女性名で、「真珠」のギリシャ語が語源だとされています。



栗栖アレクサンドラのドッペル

栗栖アレクサンドラ

ドッペル名:HALOMONAS TITANICAE

慕情のドッペル その姿は、船首像
称号:慕情の歌に宿る悲しみ

説明
この感情の主は自分の恋心を封じ込めて言葉にすることもなく眠り続ける。
水底から現れたドッペルは、どんな恋も諦めることを決して許さない不沈の権化。主や自分の気に入った相手がいると、その人の想いを歌に乗せながら羽とマストを揺らし、最高のコンサートにする。
鑑賞後に何も反応をしないと格子状のマストで細切れにされるので、拍手を送るのが無難だが、どちらにしても歌を聴くと体内にある鉄分を分解されて体調を崩すようになるので、最初から聞かないほうが良いといわれている。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「私の初恋は」

慕情は異性を恋い慕う気持ちを指す単語です。普通ならばこの感情を抱いても問題はないのですが、栗栖の場合は大人である先生へ恋心を抱いてしまったため周りに受け入れられませんでした。そんな栗栖の記憶にある恋心がドッペルに反映されたのでしょう。

船首像はそのままの意味で船の船首に飾られている像のことです。
お守り的な意味で取り付けられることが多かったものの、船が近代化していくごとに船首像の姿は消えていきました。

HALOMONAS TITANICAEはタイタニック号の残骸から見つかった細菌の名前です。この細菌は鉄を分解してエネルギーにしているとされています。ドッペルの歌で鉄分を分解してしまうという特徴はこの細菌の生態が反映された結果だと思われます。ちなみにタイタニックは海難事故としても、映画としても名を残していますが映画の『タイタニック』では身分に差がある恋が描かれています。その結末でも、叶わぬ恋となっていました。
そんなタイタニックで描かれた内容と栗栖の境遇が似ていることから、タイタニックに関係のある細菌の名がドッペルに与えられたのでしょう。



有愛うららのドッペル

有愛うらら

ドッペル名:VLASTENSKE

交情のドッペル その姿は、木偶人形
称号:交情と和解の夢に躍る独楽

説明
この感情の主は、自分と一緒にパフォーマンスをしてくれるドッペルに喜びを覚えながらも、自分自身が操られているのではないかと訝しんでいる。コミュニケーション能力が高いこのドッペルは、主のみならずいろんな人の相手ができるばかりか、コミカルな動きでみんなを虜にすると誰でも友達になってしまう。ところがそれは、このドッペルに魅了されて操られるようになった証。実際に友達になった人は、ドッペルとジャグリングをして遊んでいる間にシガーボックスで潰されたりするなど、被害に遭っているらしい。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「うちの意思なんて」

交情は親しい付き合いを表す言葉で、うららのくららに対する想いがドッペルに反映された結果だと思われます。
木偶人形は操り人形と同じ意味で、これはドッペルの在り方を表す言葉だと思われますがそれは主にも当てはまるのか?主導権はドッペルと主、どちらにあるのか。

VLASTENSKEは劇場に使用されていた名前で、チェコ語のみの公演が行われた最初の劇場だとされています。ここでは風刺的な人形劇も公演されていたようで、コメディアンや人形劇師にゆかりのある場所ということでこの名前がドッペルに使用されたと考えられます。



里見那由他のドッペル

里見那由他

ドッペル名:JING

滑稽のドッペル その姿は、架子花臉
称号:滑稽も霞む父を慕う真心

説明
この感情の主は己の中にある凶暴性に驚きつつも浅はかなドッペルに少々呆れ気味。
周りをよく見ていないこのドッペルは、目に入ったものを見て早合点するクセがあり戦うべき時に小躍りし、楽しむべき時に憤慨することがある。
頑固でなかなか考えを変えてくれないが、状況と行動が一致したときの威力はすさまじく、変幻自在な刃は避けられず、どんな攻撃も蓮の花のロータス効果で弾かれる。その戦う様はまるで躍るように美しいと賞賛されている。
ちなみに主の事を滑稽な自分と似ている仲間だと思っているらしい。

ドッペルに変化した部分
胸元

ドッペル発動時のセリフ
「私は何も見えてない」

滑稽は言動がくだらなく、みっともない様を表す言葉です。那由他自身、第一印象で物事を決めつけてしまう自分の癖が滑稽だと気づいてはいますが、魔法少女になった後も、気づいた後もいまだにその癖は克服できていません。そんな那由他の癖がドッペルへ反映されたのでしょう。
架子花瞼は京劇という中国の伝統的な演劇に登場する地位が高く、凶暴で暴れん坊な性格の男性役のことです。
那由他の凶暴的一面はいまだに見えてきませんが、果たして周囲にどれほど被害をもたらすほどのものなのか。

JINGは架子花瞼が分類される浄という隈取(顔化粧)のことです。

 



八雲みかげのドッペル

八雲みかげ

ドッペル名:CASUARIUS

癇癪のドッペル その姿は、ヒナ鳥
称号:癇癪は姉と世界への愛から

説明
この感情の主は、簡単には揺れ動かない心の持ち主だが、自分の幼さだけにはやきもきしているので、似た者同士のドッペルが好きになれない。
この幼いドッペルもまた、四肢を自在に操れるほど成長しておらず、ただエサをねだることしかできない自分が大嫌いで、主自身が幼いことも気にくわない。生まれた瞬間からストレスを溜めていて、いつも喚き声をあげることで発散している。ところがストレスがピークを越えて爆発すると、殻を破って飛び回って至る所に凄惨な爪痕を残す。それは主のストレスも重なると、さらにひどくなるらしい。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「ミィの言葉、通じないんだ・・・」

癇癪はちょっとしたことでも感情を抑えきれず、激しく怒り出すという意味です。みかげはあまり我慢せずに思ったことを言う、思ったように行動することが多いので感情を抑えることをしないという特徴がドッペルに反映されているのでしょう。
ヒナ鳥はまだ巣から飛び立つことができない鳥の幼い形態を表す言葉です。

CASUARIUSはヒクイドリのことです。
ヒクイドリは用心深くて臆病ではあるものの、気性が荒く、鱗に覆われた足についている鉤爪で自分よりも体が大きい他の動物を殺せるほどの殺傷能力をもっています。
そんなヒクイドリのひな鳥は親鳥を呼ぶために高い音程の口笛のような鳴き声を発します。
みかげのドッペルのモチーフがヒクイドリとなったのは怒りたい時はすぐ怒る、すぐに誰かを求めるといったみかげの特徴と似た生態をしているからだと考えられます。



佐和月出里のドッペル

佐和月出里

ドッペル名:BREADMAN

放浪のドッペル その姿は、クッキー
称号:放浪は赤色の教室で

説明
この感情の主は、微塵の迷いもなく無邪気に遊ぶドッペルが、自分にとって自由の象徴でありながら罪の象徴である気がして、苦悶している。
このドッペルはふわふわと自由に漂いながら、本能の従うままに行動している。大きな声を出すのも、賑やかな色彩に包まれるのも、全ては楽しいからしているだけで、誰を悲しみ苦しめようとも、この世の罪の概念は適合されない。
襲われたときは、一見穢れのない子どものように見えるばかりか成長できない哀れな存在のように思えるため、大人であるほど恐怖よりも悲しみが先に立つ。

ドッペルに変化した部分
なし

ドッペル発動時のセリフ
「ふむん、ふむむむん」

放浪はあてもなく彷徨うことであり、ある意味自由ととらえることはできますが定住先がないことは人間社会の大人からすると悲しみしか感じません。
というのも、生きるためには帰る場所が必要という常識から考えると、放浪の身は帰る場所さえないことを意味します。
月出里にとっての自由がドッペルに反映されていますが、世の中を知らなさすぎるといえばそこまででしょう。

クッキーはドッペルの見た目そのものですが、お菓子が大好きな月出里にとっては一番身近な存在なのかもしれません。

BREADMANはジンジャーブレッドマンという人型クッキーから生姜の要素をとったただの人型クッキーだと考えられます。
なぜクッキーに生姜が使用されているのかというと、食べると体が温かくなり、冬も元気の過ごせるからという想いが込められています。
しかしそんな思いも知らず、生姜が含まれていない人型クッキーでは食べても食べても心は冷たいまま。
悪夢から逃れることができず心が冷たいままの月出里がドッペルに反映されていることを意味するのです。



篠目ヨヅルのドッペル

篠目ヨヅル

ドッペル名:GOTHEL

求愛のドッペル その姿は、塔
称号:求愛と戻らない母の愛

説明
この感情の主は、自分の一部をそぎ落とした結果、悼みの鎖に繋がれても刻まれた愛情を実感できないまま、解放的な世界で虚ろな自由を生き続けている。
このドッペルもまた内なる愛情に気付くことない。ひたすら自分を大切にしてくれている人を求め続け、自分と似た魔力や境遇の人を見つけると、開いたあばら骨で捕えてしまい、取り込むように容赦無く相手を締め付ける。
だが、どれだけ取り込もうとしても、決してこのドッペルが求めるものが埋まることはない。

ドッペルに変化した部分
あばら骨

ドッペル発動時のセリフ
「それでも、何も持ちません」

求愛はそのままの意味では異性へ愛情を求めることとなりますが、ヨヅルの場合は他者へ愛を求めるという意味になるかと思います。
ドッペルが似た境遇の人物を求めるのは無くしてしまった「何か」を埋めたいヨヅルの想いが反映されているのでしょう。

塔はこのドッペルの名に関係のあるグリム童話「ラプンツェル(髪長姫)」に登場する塔から来ているとされています。その塔は入り口がなく、主人公ラプンツェルが閉じ込められていた場所でもあります。

GOTHELはグリム童話「ラプンツェル(髪長姫)」に登場する魔法使いのことです。
GOTHELはラプンツェルという植物を栽培していて、後にある夫婦から連れ去ってきた子を塔の中へ監禁して育て続けます。
監禁した子へGOTHELは外の世界のことを何も教えず、突然現れた王子が子へ愛を教えると双方へ激怒したとされています。
さて、このドッペルへGOTHELという名が与えられた理由としては原作をもとにした「塔の上のラプンツェル」に登場するGOTHELが毒親に変わっていたためです。

毒親とは、子への過干渉、支配、価値観の押し付けを行う親のことです。
かつてそんな母親の元を離れたはずのヨヅルですが、ドッペルには母親と似た存在の名を与えられ、そのうえで愛を求めるというのは皮肉なことです。



リヴィア・メディロスのドッペル

リヴィア・メディロス

ドッペル名:LUCA

苦界のドッペル その姿は、樹形図
称号:苦界は誰も救えない運命

説明
この感情の主は、生命の原初を示す存在が現れたことで、自身を加害者に至らしめる逃れられない軛(くびき)の存在を痛烈に感じている。
このドッペルは何も語らず示すこともなく、主の穢れを吸い上げて生命の木を大きく成長させている。姿こそ御包みに包まれているが、主と同様に祝福されておらず、生まれながらに得た穢れを振りまいては、性悪によって相手に危害を与える。
もしも樹形図の中に囚われる他者が現れたなら、その者は苦痛の坩堝(るつぼ)へ落ちてしまうだろう。樹形図の一部になることは主にしかできない。

ドッペルに変化した部分

ドッペル発動時のセリフ
「願いも、不幸」

苦界は苦しみの多い世界、人間界、この世のことです。
生きることは苦しみから逃れることが叶わないに等しい。生きながらに罪を背負い、それを償うために生きているリヴィアの境遇がドッペルに反映されています。

樹形図は数学で数字の組み合わせを数え上げる際に使用される手法のことですが、このドッペルの在り方を考えると「穢れから生まれた生命の木」を示していると考えられます。何故樹形図という表現になったのかは謎です。

LUCAはドイツ語圏で「光をもたらす者」という意味を持つ男性名として使用されます。
また、LUCAは福音書を残した人物の名であり、「ルカの福音書」とされるものの内容は憐れみ深さの大切さが記されています。この書物の言う「憐み」は「憐れに思うならばまずは行動しなさい」という意味が込められています。

これは世を呪うのではなく、呪いを願った者にしかできないことを同じ境遇の者へ教えて回っているリヴィアの在り方が反映された結果です。
しかし良かれと思っているそんな施しは知らぬ間に多くの人々へ呪いがもたらされる。ただただ呪いを振りまく、このドッペルのように。


追記
樹形図が何を表したいのか謎でしたが、その後調査を実施していると邪悪の木と呼ばれるあらゆる悪を表現する生命の樹を反転させたような図のことを言いたいのではという考えに至りました。
悪になりたいと願ったリヴィアだからこそ、ドッペルの姿が邪悪の木になったのかもしれません。



瀬奈みことのドッペル

瀬奈みこと

ドッペル名:WINCHESTER

隠遁のドッペル その姿は、鏡
称号:隠遁は現実を滅ぼす少女の檻

説明
この感情の主は、現実を蔑みつつも動かないドッペルに怒り、支配しようと試みる。このドッペルは思い描く緻密で理想的な世界に、複雑な感情を乗せてしまったことで身動きが取れなくなってしまった。鏡を使って想像を写し、理想の世界を紡ごうとした時期もあったが、自身の想像だけでは味気ない上に薄っぺらく感じるようで、懊悩して心を削っていった結果、シンメトリーな影へと姿を変えていった。隠れて悩み続けるドッペルに嫌気がさした主は、足りないなら加えればいいと、想像を補完するための生贄を求めることを提案し、ドッペルも主の意見に呼応している。

ドッペルに変化した部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「もう終わらせるね」

隠遁はかかわりを絶ち、俗世間から逃れて暮らすことを意味します。この言葉は能力を使って理想の家族を思い描いていたころのみことに当てはまります。なので、このドッペルはそんなころのみことの心情が反映されていると言えます。
そんなドッペルに対して嫌気がさしているこの瀬奈みことは、更紗帆奈と出会った後の瀬奈みことなのでしょう。
鏡はみことが魔法少女の時に使用している武器です。ドッペルもまた鏡を使用して想像を写し出しているようです。

このドッペルよりも魔女の方が早くゲームでは登場し、例にもれず特性と姿は魔女の時とドッペルの時とで逆に設定されています。
WINCHESTERというドッペルの名前は魔女と変わらず、英語圏で使用される人名や地名に使用されています。



佐鳥かごめのドッペル

佐鳥かごめ

ドッペル名:SUKHAVATI SMRITI

播種のドッペル その姿は、天華
称号:播種は前途の光芒

説明
この感情の主は極楽の世を夢見ながらも、自分の根幹をドッペルに奪われる。意識を持たないこのドッペルは、ただその根を伸ばして地中からエネルギーを吸い上げると大輪の花を咲かせる。その花は空を包み込むとすべてを覆い尽くすまで成長し、複雑な模様を万華鏡のように動かして、見る人々の思考を停止させると、鱗粉のような花粉を吸い込ませて楽土へと誘ってしまう。その極楽への道を人々は他の人々へ伝えて広めていくが、それが本当に幸せかどうかはわからない。何をしても止まらないが、その根を抜くとすぐに枯れて消えてしまう。

ドッペルに変化した部分
アルちゃん

ドッペル発動時のセリフ
「ひとりぼっちは嫌」

播種は種まきと同じ意味の言葉です。種まきとはいえ規則的に間隔をあけて蒔くとは違い、無秩序に種をまくものが播種に当てはまります。
天華は天上界に咲く花のことです。
かごめはキュウべえを自動浄化システムへ干渉できないようにすることを願いはしましたがその願いがドッペルへ反映されている様子はなく、どちらかというとアルちゃんの増殖していく能力が反映されたかのような特性となっています。

SUKHAVATI SMRITIは「ヒンドゥー教についての文学 極楽について」のような解釈ができるようでこのドッペルが極楽に行く方法を広める存在と見て取ることができそうです。
主であるかごめの意思や願いが反映されていないように見え、本当にかごめが出しているドッペルなのかを疑いたくなってしまいます。
ドッペルに変化したのはアルちゃんであることから、アルちゃんがドッペルそのものになっているといってもいいのかもしれません。そんなアルちゃんが自分の根幹を奪ってまで人々を極楽へ導く花に変わってしまうとはかごめ自身も思ってはいなかったでしょう。


 


黒江のドッペル

黒江

ドッペル名:ICHIZO

逃避のドッペル その姿は、ヨダカ
称号:逃避は青白き星の飛翔

説明
この感情の主は、一度は自らの過去を悔やんで足を止めたものの、光を見出した今は羽ばたこうとするのをやめようとしない。涙を流し続けるドッペルは、主を楽にするために重い泥の翼で身動きを取り辛くし、空を目指すことも駆けることも否定しながら真逆の道を示し続ける。対峙する者があれば、その翼を活かして攻撃をしかけるものの、その挙動ひとつひとつは、なにをしても光に辿り着けないことを主に示すための行動でもある。このドッペルに侵食されつくした後は、地上に佇む黒い星になるしかない。

ドッペルに変化した部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「やられちゃうくらいなら」

逃避はやるべきことから逃げたり避けたりする行為のことです。マギウスが流した噂や環いろはとの出会いで希望を見出す機会はあったものの黒江は現実から逃避する考えを持ち続けています。そんな思考がドッペルに反映されてしまったのかドッペルは頻繁に黒江を逃避の道へと導いてしまうようです。

ヨダカはこのドッペルのモチーフとなっている宮沢賢治の作品「よだかの星」で主人公として登場する「よだか」のことです。

ICHIZOは「よだかの星」で主人公として登場する「よだか」が他人から改名しろと迫られた名前です。よだかは悲しみながら光に向かって飛び続けたというエピソードが反映されてはいるもののこのドッペルはその光へたどり着くことを諦めさせようとしてきます。
精神衛生上よろしくないドッペルです。

 



鹿目まどかのドッペル

鹿目まどか

ドッペル名:KRIEMHILD GRETCHEN

慈悲のドッペル その姿は、救済
称号:慈悲と救済の優しき祈り

説明
この感情の主は、万物を救おうと試みる。
浮遊する巨大なソウルジェムに見えるこのドッペルが現れた時、周囲のものは全てこのドッペルが生み出したものの体内に取り込まれ、体の自由を奪われる。
その後、このドッペルが大きく浮遊して光り輝くと、周囲一帯は光の矢に包まれることになる。
その最中、感情の主は巨大なソウルジェムの中で眠り続けている。

ドッペルに変化した部分
ソウルジェム(魂)?

ドッペル発動時のセリフ
「私の中から出てきて」

 

そもそもまどかのドッペルの名前はまどマギ本編中に出てくるまどかの魔女の名前と同じです。
魔女の際の説明文はこのようになっています。

救済の魔女。その性質は慈悲。
この星の全ての生命を強制的に吸い上げ彼女の作った新しい天国(結界)へと導いていく。 この魔女を倒したくば世界中の不幸を取り除く以外に方法は無い。 もし世界中から悲しみがなくなれば魔女はここが天国であると錯覚するだろう。

ここで注目したいのは、ドッペルの名前は魔女のときの性質であり、ドッペルの姿は魔女の名前であることです。
このように、ドッペルはその魔法少女が魔女になった時の姿を鏡に写したような存在だとここからも知ることができます。
さらに、ドッペルが与える影響は攻撃対象だけでなく周囲に無差別に作用するということです。慈悲のドッペルは仲間を、守りたい人々をドッペルに閉じ込めてそれ以外を光の矢で無慈悲に攻撃するという仕組みです。そのため、仲間にはダメージカットの効果がつくとも考えられます。

KRIEMHILD GRETCHENという人物は存在せず、KRIEMHILDとGRETCHENという二人の人物の特徴からとった魔女の名前だと考えられます。
KRIEMHILDはジークフリートの妻を指しています。KRIEMHILDはジークフリートの死後、長い間ジークフリートの死を悲しみ続けたということから慈悲の意味を持っています。
GRETCHENはファウストの妻であり、子殺しの罪で死刑となっています。しかし、天に贖罪と罪を求め続けた結果、GRETCHENは天に導かれたのです。その後、GRETCHENは聖母マリアと共にファウストを救済しようとします。つまり、救済を意味する部分です。
このドッペルの名前は、慈悲と救済からできているのです。それはまさにまどかの願いと思いからできたものでもあります。



暁美ほむらのドッペル

暁美ほむら(眼鏡ver.)

ドッペル名:HOMULILLY

閉鎖回路のドッペル その姿は、此岸
称号:閉鎖回路は此岸の淵を覗く

説明
この感情の主は、時を超え幾度もの試行錯誤を繰り返す。
因果を重ね続けるその姿は主とドッペルがほぼ全身にわたり一体化している。
肌はガラスとなり表情も人形のように固定され、対象が沈黙するまで淡々と攻撃を続けるその姿は他魔法少女と比べてもあまりに魔女に近い。
時間砂を操る能力をもつ他、帽子に乗せた宇宙生物から重要度の低い情報ならば抜き取ることができ、地球上に存在する武器程度であれば時間砂を硬化させ再現することが可能。

ドッペルとつながる部分
一体化

ドッペル発動時のセリフ
「いるんでしょ」

感情の振れ幅がなくなるにつれて一体化するという特徴を持つドッペルですが、ほむらの場合は神浜の年長者のドッペル以上に一体化しています。希望と絶望の相転移がほぼないに等しいですが、時間遡行を繰り返してきているためかドッペルの強さは確かです。
魔法少女まどか☆マギカ本編で魔女化を見せることがありませんでしたが、PSPゲームや叛逆の物語で魔女となった姿を現していました。その際すべてに共通していたのは HOMULILLYという魔女の呼び名だけで魔女の名前、性質はその場面ごとに異なるものでした。
 このドッペルはPSPゲームの際にあらわになったほむらが魔女化した場合に似ています。

此岸はこの世を意味し、煩悩に苦しみ続ける世界とも当てられます。まどかが救われる世界を求めて時間遡行を続けるほむらにとって、彼岸よりも此岸を求める思いが強いと考えられます。
閉鎖回路は抜け道がなく永遠に回り続けることを意味し、終わりのない時間遡行を繰り返すほむらを表しています。一定期間をめぐり続けるほむらにとって神浜市というイレギュラーは閉鎖回路を破る可能性となりました。

HOMULILLYは見滝原の魔法少女共通の造語の呼び名です。 LILLYはユリの花を意味し、葬儀の花としても使われます。 LILY は彼岸花を英語表記する際に使用されることから、 HOMULILLY は此岸の魔女からとり、此岸花という意味があるのかもしれません。きっと此岸花は煩悩にあふれた禍々しい花なのでしょう。此岸に咲く花なのですから。


暁美ほむらのドッペルは性質が業因となっています。業因には未来の苦楽へ報いをもたらす善悪の行為という意味があります。彼女の行いによって、未来の因果が大きく変わったことは間違いありません。また、ドッペルから出てくる14の感情は、時間遡行を繰り返すたびにほむらから欠落していった感情たちなのかもしれません。15番目の感情は生れ落ちておらず、15番目が姿を現すときには、感情の主は悪魔となってしまっているかもしれません。



美樹さやかのドッペル

美樹さやか

ドッペル名:OKTVIA VON SECKENDORFF

恋慕のドッペル その姿は、人魚
称号:恋慕に溺れる人魚の心

説明
この感情の主は年相応の恋に悩み、一人では背負いきれぬほど過酷な運命を選択した。
そしてそのドッペルもまた恋を夢見ながら空中を自在に泳ぎ回り、主の為にがらんどうの体から音を奏でる。
自身が発する音波にのせることで数多の剣を飛ばし操り攻撃できもするが、胸に秘めたわだかまりから逃れることはできないだろう。

ドッペルとつながる部分
ほぼなし(主がドッペルに捕まっている状態)

ドッペル発動時のセリフ
「後悔なんて、あるわけない」

 

ドッペルの中では珍しく、主自身がドッペルに掴まるような姿をしています。これはさやかの感情の正負の差がとてつもなく大きいことを指しています。
さやかも同様で、まどマギ本編で登場した魔女の性質と名前が逆の状態でドッペルに反映されています。

OKTVIA VON SECKENDORFFという人物は存在しません。
OKTVIAは音楽用語の「オクターヴ」を意味していて、VON SECKENDORFFは騎士を意味していると考えられます。SECKENDORFFは実在した貴族名ではありますが、VONは騎士を意味することもあるらしく、騎士のような姿をしていたさやかにマッチした名前です。オクターブの騎士と捉えることができます。
ちなみに、姿が人魚なのは、このドッペルが人魚姫をモチーフとしていることが関係しているからです。
人魚姫は溺れ死にそうだった王子を助け、恋に落ちます。しかし、王子は助けてくれたのが人魚姫だとは知りません。人魚姫は王子と結婚するために魔女と契約を交わし、声と引き換えに人間となることができました。声を出せないため、王子と共にいられても真実を語れない、不慣れな体で痛みを伴うという日々を送ります。さらには王子が隣国の姫君を妃に迎えることになります。
人魚姫は人魚に戻る方法がありましたが、それは王子の命を奪う方法であり、それはできないと考えて自ら死を選んだのです。
まさに、まどマギでさやかが歩んだ運命の顛末に一致します。



巴マミのドッペル

巴マミ

ドッペル名:CANDELORO

ご招待のドッペル その姿は、おめかし
称号:ご招待は優雅な紅茶の香り

説明
この感情の主は、ドッペルを信用せず、普段通り戦い続ける。
他と比べると非常に小柄であるこのドッペルは、頭上に位置するため、主にその姿を認識されることは滅多にない。
意思の疎通が取れているのかも怪しいため、主はいつもどおり戦い続けるが、このドッペルはそれを支援している。
通常時のドッペルを見る限りは小ぶりで頼りないが、その蔦は相手を貫くだけの破壊力を十分に持ち合わせている。

ドッペルとつながる部分

ドッペル発動時のセリフ
「出てきなさい」

ご招待は人を招き入れ、もてなす行為を言います。マミはよく友人を招いてはお茶会を開くという行為を積極的に行っていたことがドッペルに反映されています。
おめかしはおしゃれをすることと同じ意味です。魔法少女となったマミの日々を振り返るとおしゃれに気を使っている様子はありません。
魔法少女となる前は女の子らしくおしゃれを楽しみたいという願望があったのかもしれません。その気持ちが、ドッペルに反映されている可能性があります。

CANDELOROはイタリア語圏で苗字として使用されています。とはいえ使用例がとても少なく、意味も不明です。

ホーリーマミとなっていた間、ドッペルの名前と姿は変わっても、かつてのドッペル(ご招待のドッペル)と同じドッペル名なのです。ここからわかることは、たとえ魔法少女自身の心情が変わっても魔法少女となるために願った内容にドッペルの本来の姿は左右されるということです。また、完全にドッペルの姿が変わったわけではないということもこのドッペルから知ることができます。
本編中でもマミはホーリーマミになる前の巴マミとの間で葛藤していました。どこかにマギウスがもたらす救済への不信感があるということです。
つまり、ホーリーマミとかわっても、彼女はただの巴マミから変わってはいないということです。



佐倉杏子のドッペル

佐倉杏子

ドッペル名:OPHELIA

自棄のドッペル その姿は、武旦
称号:自戒の果てに燻る想い

説明
この感情の主は、得体の知れないこのちからを全く信用しておらず、ドッペルから武器を拝借し自分自身の手で刃を振るう。
主にとっては霧を操り幻を生み怪しげな催眠魔法を行使するこのドッペルの能力からして過去を思い起こさせるだけの忌々しいものでしかないが、それでも感情の底へしまい込んだかつての未練をこのドッペルは持っており胡散臭いと感じながらも出現後にある程度攻撃の手伝いをすることは容認している。
ちなみに、主を上にのせて走り回る燭台の部分とはためく着物のような部分はそれぞれ別個体らしくドッペルとしての本体は着物の方らしい。

ドッペルとつながる部分
体全体(ドッペルの本体である蝋燭部分が杏子となっている

ドッペル発動時のセリフ
「やるぞ、出てきやがれ」

自棄は二つの読み方がありますが、今回は「やけ」と読む方の意味です。思うように事が運ばず、やけくそになるという意味です。
かつては父親の活動を支援できて喜んでいましたが、その結果家族を死に追いやった自分が嫌になり、好き勝手振る舞うようになりました。そんなやけくそ気味な性格がドッペルに反映されているのです。

武旦は中国の古典劇で武器を振り回すアクション女優を表します。杏子自身も武器を振り回す戦闘スタイルです。

OPHELIAはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」に登場する女性オフィーリアを表しています。
オフィーリアはハムレットからの求愛を退けてしまいます。これはオフィーリアの父から求愛を退けるよう助言を受けたからです。その後、オフィーリアはハムレットから邪険にされ、追い打ちのように父が殺されてしまいます。
そして錯乱してしまったオフィーリアは小川で自殺してしまいます。

悲劇のヒロインであるオフィーリアの名前が付けられているのは素直な気持ちを心寄せたい相手(さやか)に届けようとしますが邪険に扱われてしまう、自分の行いで父が死んでしまうというまどマギ本編での杏子の立場とオフィーリアの顛末が類似しているからでしょう。



百江なぎさのドッペル

百江なぎさ

ドッペル名:CHARLOTTE

執着のドッペル その姿は、お菓子
称号:執着の亡者は空より来たる

説明
この感情の主は、ひとたび琴線に触れれば、ものであれ人であれ、とことん執着する。時にその行いはあさましく思えるが、根底に流れるのは深い愛情である。
このドッペルは一体型ではないが、鼻から覆面が出てきて、そのまますっぽりと宿主の顔を包み込んでしまう。ドッペルの出現中は動くことはせず、そのまま座り込んでじっとしている。まるで、執着した対象をじっと見つめているかのように。

ドッペルとつながる部分

ドッペル発動時のセリフ
「食べたい」

執着とは物や人に心を惹かれ、忘れきることができないという意味があります。なぎさの場合は病気である母親に執着し、さらには母親が好きだったというチーズにも執着する機会がありました。なぎさの人生の中で常に何かに執着しがちだった性格がドッペルに反映されているのです。

お菓子と一言で言えば甘いもの、幸せになるものと考えることができますが、なぎさにとってのお菓子はチーズという選択肢しかないのでしょう。

CHARLOTTEはヨーロッパ系の女性名です。ちなみに愛称だとロッテと呼ばれるそうです。ロッテといえばお菓子メーカー。
まさかそこからお菓子が?



矢宵かのこのドッペル

矢宵かのこ

ドッペル名:BRODERIE

綻びのドッペル その姿は、糸切り
称号:綻び越えて目指すランウェイ

説明
この感情の主は

ドッペルとつながる部分
頭、両腕、下半身

ドッペル発動時のセリフ
「内から纏わせるものが」

この感情の主は、自身の能力とは真逆の力を持つドッペルを忌々しく思っている。触れたものをほころばせることができるドッペルは、わずかな魔力で小さなほころびを作ると、あらゆるものや概念までも崩壊させてしまう恐ろしい力を発揮する。
ところが、このドッペルは主の作品を崩壊させることにしか興味がないらしく、主がせっかく縫合したものばかりを狙っては台無しにしてしまう。また、このドッペルは魔力が低いにも関わらず異常な自己増殖能力を持っており、圧倒的な省エネルギーで保有する魔力とは対象的な大きい体を持っている。

綻びは衣服の縫い目がほどける意味で使われますが、強固な存在が崩壊する隙を表す際にも綻びという言葉が使われます。というのも、このドッペルは衣服だけでなく概念さえも崩壊させる綻びを作る恐ろしいドッペルなのです。
いまのところはかのこが作ったものをほころばせることにしか興味がないようです。まあ、実際作成されようとする衣服のセンスを見れば、ドッペルが綻ばせたくなる気持ちもわかります。
糸切りは裁縫道具の一つで、縫い合わせた後に余分な糸を切る際に使用されます。このドッペルは縫い合わしに使用した糸ごと切ってしまいますが。

BRODERIEはフランス語で刺繍を意味します。デザイナーを目指すかのこの思考が反映されたぴったりの名前ですが、センスまで組み込まれたせいでドッペルの能力も見た目もどこかキノコの要素が漂う。

ちなみにかのこはほぼドッペルと一体化しているため、魔法少女歴が長い、感情の振れ幅が小さいことがうかがえます。



空穂夏希のドッペル

空穂夏希

ドッペル名:AODAMO

鼓舞のドッペル その姿は、メガホン
称号:鼓舞は誰がため己がため

説明
この感情の主はドッペルのことを自身の特徴を表した良い存在だと思っており、応援した者を使い潰すような危険なものであることをまだ知らない。ドッペル本体の周囲には、応援した相手を魅了して死ぬまで戦わせるための亡霊が漂っており、一度この亡霊に取り憑かれた者は肉の壁となって死ぬまで主を守ることになる。

ドッペルとつながる部分
右手

ドッペル発動時のセリフ
「わたしだって、選手だ!」

 

鼓舞は人の気持ちを奮い立たせることを意味します。他人を応援することに悦びを感じる夏希のキモチがドッペルに反映された結果ではありますが、その応援は応援された人間が死ぬまで頑張るまでに気持ちを奮い立たせてしまいます。
メガホンは機械のものとプラスチックのものがありますが夏希にとってはプラスチック製の方が当てはまるでしょう。応援道具であり、狙った相手に届きやすいということからプラスチック製のメガホンの姿となったのでしょう。

AODAMOはスポーツ用品の素材としてよく使用されている植物で、もちろん野球バットの素材にもなっています。
応援する側になる前は実際に選手として活動していたというのもあり、木製バットに思い入れがあってこの名前が与えられたのかもしれません。



都ひなののドッペル

都ひなの

ドッペル名:CYAN

軽忽のドッペル その姿は、スモッグ
称号:軽忽と伸びない身長

説明
この感情の主は長くなった脚にご満悦。
その長い右足は内部を沸騰させ、左足は凝結による化学反応でそれぞれ上半身を構成する新たなガスを製造している。またガスで出来た体は物理攻撃にも強い耐性を誇るが、溢れるその毒性で周囲を巻き込んでしまうのがたまにキズ。
ひとたびこのドッペルが現れると、その周囲は敵味方問わず、強烈な毒に侵されてしまい主といえどもガスマスクの着用なくしては耐えきれないだろう。また、このドッペルは好奇心が強く、珍しい魔女や魔物には目がない。

ドッペルとつながる部分
足、頭

ドッペル発動時のセリフ
「だれがチビだ」

 

軽忽とは、「軽々しく」という意味を持っています。これは、軽い気持ちでやるべきではない実験をやってしまったひなのを意味しています。軽々しく危ない実験を行ったことも魔法少女になったきっかけであり、また、身長が伸びる薬の開発も、軽い気持ちでやる事ではありません。
スモッグはドッペル発動後に周囲を毒素で満たすことからきていると考えられます。このドッペルはまどかのドッペル同様、無差別に周囲を巻き込むドッペルだということです。ちなみに実際に周囲が危ない状況になることが、みたまの特訓のストーリーで語られています。

CYANは化学物質のシアン(ジシアン)を指していると考えられます。シアンは還元を行うことでシアン化水素を生じ、ジシアンを吸収すると頭痛や痙攣をおこし、死に至るとされています。
化学反応と死に至らせる有害物質ということから、ドッペル名として使用されたのでしょう。
ちなみにシアンに身長を伸ばす効果はありません。



美凪ささらのドッペル

美凪ささら

ドッペル名:DON ROCINANTE

矜持のドッペル その姿は、ゴルゲット
称号:矜持が導く父の背中

説明
この感情の主は自分にふさわしい勇ましいドッペルだとご満悦だが、ギラギラと銀に光るその体は冬冷たく夏熱い。ドッペルは主と同様に誇り高く、何事にも正々堂々と立ち向かう性質。だが、自分の強靭な体に対して無駄ともいえる自信を持っているため、どんな攻撃が来ても避けることなく進んだ結果、痛い目に遭うこともある。また、その体は堅固な鎧としての恩恵を主に捧げるが、主自身も誇り高く自ら前に出てトドメを刺そうとするため、両者で主導権争いになることもある。

ドッペルとつながる部分
なし(着込む感じ)

ドッペル発動時のセリフ
「私が救ってあげるから」

矜持とはプライドを持つ、誇りをもつという意味以外に自分をコントロールするという意味もあります。正々堂々と何かに取り組む性格はドッペルにも反映され、誰かを救えることに誇りをもっているようです。自分とドッペルの間で主導権争いをするようなので、自分をコントロール出来ているかというと微妙なところではあります。
ゴルゲットとは、鎧についている喉あてのことです。剣等での首に対する攻撃を防ぐために作られましたが、銃が戦の主流となってからは戦場から姿を消しました。

 

DON ROCINANTEですが、「ドン・キホーテ」と「ロシナンテ」を合わせた名だと考えられます。
ドン・キホーテは騎士道物語にどっぷりとつかった郷士が自らを騎士と名乗って冒険する物語のことで、ロシナンテはその主人公が乗る馬の名前です。
滑稽本を元ネタとした名前が付けられてしまっていますが、おそらく騎士道にあこがれた存在という共通点があったためドン・キホーテをもとにした名前が付けられたのでしょう。



常盤ななかのドッペル

常盤ななか

ドッペル名:MAURA

表裏のドッペル その姿は暖簾
称号:表裏に咲き乱れる復讐の花

説明
このドッペルは表裏の写し。この感情の主はこのドッペルに関し、あまりに花の要素がないことでどこか罪悪感を感じている。このドッペルは補助主体の表側と攻撃性の高い裏側を使い分けて戦う。相手の攻撃を受け流すのが得意な他、その暖簾をくぐった者をあの世へと導いてしまう。

ドッペルに変化する部分
ほとんどなし(首吊り状態)

ドッペル発動時のセリフ
「お相手を」

暖簾(のれん)は店先、あるいは部屋の境界に日よけや目隠しのために吊り下げる布のことを言います。暖簾を使った言葉は様々ですが、ななかに関わるものならば「暖簾に傷がつく」でしょう。華心流の門下生の行いに対して復讐を願ったななかにとって、 華心流の暖簾に傷がつく行為は心にしみついているはずです。その心の現れからか、ドッペルの姿は暖簾となっているのです。
性質が表裏なのは、ななか自身が人と接する際に建前と本音の表裏をよく使い分けていたからです。
また、 MAURAはイタリア語圏で女性名として使われることがありますが、この場合は「真裏」でしょう。ドッペルの姿自体が常に裏を見せているあたり、このドッペルの名前には「彼女には裏しかない」という意味が込められています。



木崎衣美里のドッペル

木崎衣美里

ドッペル名:SHALIMAR

誘惑のドッペル その姿はヘビイチゴ
称号:誘惑と閃くお悩み解決

説明
この感情の主は、善悪の概念がなく自由に振る舞うドッペルに親近感を覚えながら、自身の幼さを感じている。
脳内へ直接届く超音波の言葉であらゆることを肯定するこのドッペルは、自信と勇気を与えることでどんな悩みも解決させてしまう。その心地よい言葉は人々を大いに依存させるが、良かれと思って人間の攻撃性や悪性までも際限なく肯定してしまうため、意図せず対象を最悪の行動へと導いてしまうだろう。

 

ドッペルとつながる部分
尻尾(武器)


ドッペル発動時のセリフ
「来ちゃっていいよ!」

誘惑は不正な考えや邪な考えをちらつかせて他人を誘ったり惑わしたりすることを意味します。衣美里からよく飛び出す固定概念や社会的な考えに囚われない考え方は、よく考えるとそういった考えに反する行為を提案していることになります。
梨花へ魔法少女になればいいと軽く言えてしまうのも、無意識に誘惑してしまった結果でしょう。
ヘビイチゴはイチゴのような見た目をしているだけの多年草の一種です。名前の由来は蛇が居そうな場所に生息することから来ています。
ちなみにヘビイチゴの花言葉は可憐、小悪魔のような魅力です。
おそらく花言葉から影響されたのでしょう。

SHALIMARは香水の名前であり、サンスクリット語で「愛の神殿」を意味するシャリマー庭園から来ていて、この庭園はインドの皇帝が王妃のために用意したとされています。
香水ボトルの形状が大きく評価されたシャリマーですが、女性の魅力を底上げする至高の逸品ともいわれています。
そんな何でも魅了してしまう香水の在り方が、衣美里の在り方と似ているため、シャリマーという名が与えられたのでしょう。



保澄雫のドッペル

保澄雫

ドッペル名:VAYU

フーテンのドッペル その姿は風天
称号:フーテンは珈琲と漂う香り

説明
この感情の主は自分同様どんなに早く駆け回っても結局は海を越えられないドッペルの能力にガッカリしている。
このドッペルは足先に触れたものをたちまち風化させることができるが、じっとしていると砂漠化した地面に自分が埋まってしまうため絶えず走り回っていないといけない。
また、このドッペルが現れると主はドッペルと共に駆け去ってしまうが、足跡のように風化した跡が残るので、追いかけるのは容易らしい。

ドッペルとつながる部分
ほぼなし(ドッペルに乗っかっている)

ドッペル発動時のセリフ
「あなたの居場所はここじゃない!」

フーテンは瘋癲という言葉が元となってて定まった仕事や住所をもたない人のことを指します。一か所にとどまらず色んな所へ旅をしたいというふーにいがいたときの雫の感情がドッペルへ反映されています。
ちなみにドッペルの姿がどこか虎に似ているのは「男はつらいよ」の寅さんから来ていると考えられます。
風天は古代インドの風の神様のことで右手に幡を持っているとされています。
風天は風が吹き通っていく威力がある様子が神格化されたものとされていて、ドッペルの在り方は表していますが雫との共通点はあまり見られません。
しかし、雫が風のような存在だということは否定できません。なぜならば居場所を探してすぐどこかへ姿を消してしまうからです。

VAYUは風天のサンスクリッド語版の呼び方です。



志伸あきらのドッペル

志伸あきら

ドッペル名:ELSIE

ありのままのドッペル その姿はポーチ
称号:ありのままに惑う乙女の含羞

説明
この感情の主はこのドッペルを悪くは思っていないが、やはり他人に見られるのはどこか抵抗もある。二面性を持ち合わせたドッペルは、フリルなどの装飾からカラーリングまで、可愛らしく温もりを感じさせる見た目をしているが、内側の印象は対照的。ポーチを開くと可愛らしいアイテムの代わりに可愛らしくない内臓が頭をのぞかせて、見た者の空気を凍らせる。さらに、内臓は物理的にも非常に冷たいので、殴られた者は一瞬で精神的にも肉体的にも凍り付く。ちなみにドッペルは自分が原因で凍っているとは思っていない。

ドッペルとつながる部分

ドッペル発動時のセリフ
「出すよ奥の手」

ありのまま、はつくろうことない素の状態であることを意味します。あきらは男子に混じって空手に臨む時間が多かったため素直に女の子として生活することに若干恥ずかしさを覚えるようになっています。そんな恥ずかしさを感じず可愛いものに向き合いたいという想いがドッペルに反映されたのでしょう。
ポーチは多目的に使用される小道具入れです。化粧品や小腹がすいた時に食べる食品を入れるのにはちょうどいいでしょう。そんな中身をドッペルは何故内臓にしてしまったのか。

ELSIEは英語圏で使用される女性名で、神は誓ったという言葉が語源になっているようです。



胡桃まなかのドッペル

胡桃まなか

ドッペル名:CARMELA

集客のドッペル その姿はプロパン
称号:集客と食べて欲しい店の味

説明
この感情の主は、自らの体から染み出す毒素によって毒料理しか生み出せないこのドッペルを快く思わない。このドッペルは、クラゲのような触手の先端についたバーナーを駆使してどんな料理もおいしい毒料理へと調理し、お客様を頭部のガラス球に完備された座席に無理やりご滞在願う。この魔女に調理された毒料理たちは意志をもち、率先してお客様の胃袋へ電撃訪問するため、座っているだけでも食事が可能。ちなみに毒料理だが味は良い。味は良いが出所不明の謎肉をはじめとし、呻く野菜、歩き回る果物など産地に不安が募る食材がふんだんに使用されている。

 

ドッペルとつながる部分
ほぼなし(ドッペルに乗っかっている)


ドッペル発動時のセリフ
「これがウォールナッツの味です!」

 

集客はそのままの意味であり、客が集まるようにふるまうことを意味します。これはまなかが望んで願った内容とは少し違います。本来ならばウォールナッツの名が知れ渡るチャンスだけでよかったにもかかわらずこのドッペルは客の関心を縛り付けて集客し、名が知れ渡るようにすると解釈してしまったようです。
リピーターが多ければ口コミで人気となるのは確かですが、もしドッペルの力で客を縛り付けた結果が集客につながってるとしたら、実力で名を知れ渡らせようとしたまなかには皮肉にしかなりません。
プロパンはガス燃料のことであり、料理関係のお店では数本並んでいる光景や、ガス缶の取り換え作業を行う風景が浮かびます。料理にとって大事な道具ですが、ドッペルには見た目でしか反映されていません。

CARMELAはイタリア語圏で使用される女性名で、由来は庭園という言葉から来ています。



阿見莉愛のドッペル

阿見莉愛

ドッペル名:HEIDE・JEKYLL

カリスマのドッペル その姿はヒトデ
称号:カリスマに魅せられた本性

説明
この感情の主は、太陽のごとく輝いて皆の注目の的になることを切望している。その承認欲求に共感したドッペルは、主の憧れから最上の美しさを追求すると、星のような分子配列構造を内包した透明感ある肉体を作りだすことに成功し、それを主の体と置き換えてあげようとしている。光を放つ本体は、その肉体を讃える者たちを集めようと四方八方に触手を伸ばし、強制的にファンを獲得しようとしている。もしも逃げようとすると串刺しにされてしまうが、ひとことカワイイと言ってあげるだけで見逃してくれる。

 

ドッペルとつながる部分
主と一体化


ドッペル発動時のセリフ
「私の美しさは本物よ!」

 

このドッペルは他のドッペルとは違ってドッペルを出した本人と同化し、本人の姿を変えてしまうドッペルです。

カリスマは他の人々を引き付け、感銘を与える強力な個人の性質という意味で特定の分野で人々を引き付けるほど高い能力を持っているものに向けられる言葉でもあります。莉愛の場合は生まれた頃から美少女ということにしてほしいと願ったため美しさのカリスマを求めていることが分かります。そんな願いがドッペルに反映された結果でしょう。
ヒトデが姿として選ばれているのは美しいのは星のような存在に行きついた結果と結びつけられたものである可能性があります。

HEIDE・JEKYLLはジキルとハイドから来ていると考えられ、ジキルが薬を飲んで容貌と性格が変わっていたという点がこのドッペルの特徴とあてはまるためこの名が与えられたのでしょう。
とはいえジキルとハイドであれば「HYDE」となるはずだが、「HEIDE」だった場合は地名や花の名前となります。HEIDEには荒野という意味があるのですが、わざとHEIDEにされた意味があるかどうかは謎です。



夏目かこのドッペル

夏目かこ

ドッペル名:ANDREANA

勇み足のドッペル その姿は裁断
称号:勇み足と躊躇いの記された本

説明
この感情の主は躊躇なく刃物を振り回し大事な本丸ごと切り刻んでしまう自分のドッペルに怖がっているが、内心言い表せない開放感があることも事実である。
出現したドッペルは何事にも物怖じしてしまう主と違い、考えるより先にギロチン刃で切りきざみ、相手の肉体のみならず、あらゆる魔法の繋がりを寸断してしまう。
物理的に近距離しか攻撃できず、間違って仲間に斬りかかることもあるので隙が生じることも間々あるが、このドッペルは感情の主にはコントロールができないので、ただ怯えて固まることしかできない。

 

ドッペルとつながる部分
胸部(ソウルジェムがあった場所)


ドッペル発動時のセリフ
「お願い」

勇み足とは調子に乗って失敗したり、余計なことに踏み込みすぎて失敗する言葉として使用され、良い意味ではありません。ドッペル自身は勢い余って仲間を切り刻むという失敗をしてしまい、かこ自身の行動の中では、散花愁想であやめを説得するつもりが、帆奈に状況を利用されて逆に不審がらせてしまったという勇み足な行動をしたことがあります。

裁断とは物を断ち切るという意味のほかに、物事の善悪、適否を判断して決めることという意味があります。ドッペル的には物理的な意味があり、かこ自身からは物事の判断をきっぱりと決めることが多いことから後者の考えが反映されていると考えられます。

ANDREANAにはイタリア語圏の女性名で、女性系で男らしいという意味があります。また、ANDREANAという名前の温帯性睡蓮が存在し、かこが頭につけている花飾りが白い睡蓮であるならば、そこから取った名前なのかもしれません。
睡蓮の花言葉は清純な心という意味があります。
ドッペル自体については女性系の男らしいという意味が当てはまりますが、かこ自身には実際の花言葉が当てはまります。
このように、ドッペルと主で二面の考え方ができる意味がドッペルの名前、性質、姿に存在する点が面白いです。



純美雨のドッペル

純美雨

ドッペル名:DELANNA

安眠のドッペル その姿はタオル
称号:安眠を求める功夫者の夢

説明
この感情の主はどこか幼稚でもあるこのドッペルを憎からず思う。
主の鋭さとは逆に幼子のような精神を持つこのドッペルは、ただ安眠を欲し、それが妨げられるとのたうち回って大暴れする他、赤ん坊のような声で泣きわめき相手の鼓膜を破壊する。
また、このドッペルがあくびをすれば、敵味方問わず周囲の生物には猛烈な睡魔が襲い掛かり、その柔らかな体にすり寄られた者にはこの上ない安眠が約束される。

 

ドッペルとつながる部分
左手


ドッペル発動時のセリフ
「悪鬼、招来!」

 

安眠とは、安らかにぐっすり眠ることを意味します。ちなみに美雨がひそかに安眠を欲していると考えられる一面が、「心溶ける枕」というメモリアで描かれています。
タオルはタオル。きっと柔らかい。

DELANNAとはイタリア語圏で使用される女性名であり、ウールのように柔らかいという意味があります。
ドッペルにこの名前が与えられたのはそのままの意味であり、安眠できる柔らかな存在ということを表しているのです。眠りを妨害されると暴れてしまうこのドッペルには、平和な日々(安眠できる日々)を脅かすものは許さないという美雨の心が映し出されているとも言えます。



相野みとのドッペル

相野みと

ドッペル名:AKAKIY

包括のドッペル その姿は外套
称号:包括された愛情の四つ葉

説明
この感情の主は美しい友情を永遠のものにしたいと願っている。
このドッペルはその体で包んだ物を一つの塊になるまで圧縮することで答えた。圧縮された物体は水晶となり、数千年にわたり輝き続け決して砕けることはない。
呼び出された際には主の感情を水晶に変えて攻撃するが、この力を使い続けた者はその記憶すらもやがて水晶となり新たな記憶を持つことができなくなるだろう。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「ここで出しちゃうか」

包括とはまとめて一つにしてしまうという意味で、このドッペルが包んだ物をzipファイルとしてしまう行為を表しています。しかし一度圧縮した記憶は水晶に映り続けるだけであって開封することは叶いません。
外套とは周囲に対応するために着込む衣服のことであり、貝類の貝殻部分も外套に該当します。このドッペルが思い出の外套という役割を持っていることを表しているのでしょう。

AKAKIYはゴーゴリというロシア人が手掛けた文学作品「外套」に出てくる主人公の名前ではあるものの、その語源、名前の意味は実在するものではないため、作者が生み出したオリジナルの名前である可能性が高いです。
作品の内容については主人公が新しく買ったコートを知人に自慢した後に何者かに奪われてしまい、誰にも助けてもらえず死んでしまった後に亡霊として彷徨うようになるという内容です。
みとに合った内容とも思えないため、外套という言葉にちなんだ人名ということで選ばれただけでしょう。



粟根こころのドッペル

粟根こころ

ドッペル名:PAMELA

我慢のドッペル その姿は殻
称号:我慢と壊したくない家族

説明
この感情の主は自身のドッペルのことを、自分が溜め込んでいる感情を発露してくれるものだと認識しているが、それが代償行為だと理解しているので、割り切れない気持ちで眺めている。
このドッペルは、害を加えようとする者に抵抗感を示してトゲを出し、危険と認識すれば激しく攻撃を加えてくる。
まれに、主の感情の高ぶりに合わせて爆発を引き起こすと、陶器とも金属とも違った強い強度を持つ殻が破られ、激しい魔力の波があたりを包み込む。

ドッペルに変化する部分
髪の毛の一部

ドッペル発動時のセリフ
「やられるなんて絶対にいや」

殻は貝や何かの建物といった大事なものを守るためにあるものです。そして、殻は外部からの衝撃から中身を守ると同時に犠牲となるものです。このドッペルが持つ殻はこころを守るためのものではなく、こころ自身を表しています。こころは守りたいという気持ちが強く、願いで呼び戻した母親、父親がそろった家族、そして戦う仲間たちを守りたいのです。しかしその守る対象に自分は含まれていません。このドッペルからはこころの危うさもうかがえるのです。その姿勢が献身的なのか、自己犠牲なのか。人によって見方が変わってくるでしょう。
我慢はそのままの意味であり、こころの我慢しがちな性格が現れています。

PAMELAは英語圏の女性名として使用されるほか、「すべてが甘い」という意味があります。こころが願った「お母さんに戻ってきてほしい」という願いは、母親が戻ってきたらすべてが元通りになるという甘さから生まれた願いです。本人もこのことについては自覚していて、素直に向き合っています。



加賀見まさらのドッペル

加賀見まさら

ドッペル名:SELENE

索漠のドッペル その姿は凪
称号:索漠の境地に空は凪ぎ

説明
この感情の主はドッペルに関して特にこれといった感情を持ち合わせない。周囲の魔力の活動を著しく低下させるドッペルは、どんなに激しい戦闘の最中であろうと周囲の魔力を凪の状態に変えてしまう。その魔力の凪の中にいる限り、敵も味方も関係なく、双方は如何なる魔力の効果も発揮することができない。ドッペルと主の姿の融合は、感情の起伏に乏しい主の特徴が要因になっているらしい。

ドッペルに変化する部分
手足

ドッペル発動時のセリフ
「退屈してるみたい」

索漠は心を慰めるようなものもないくらい物悲しいさまを意味します。ほとんどの出来事に心がなびかないまさらの心情がドッペルに反映されたのでしょう。
凪は風がなく、波もたたない静かな海面を示した言葉です。
魔力を激しく扱うことができなくなるため冷静に戦える魔法少女ほどこのドッペルの恩恵は受けやすいのかもしれません。

SELENEはギリシャ神話に登場する月の女神の名前です。



七瀬ゆきかのドッペル

七瀬ゆきか

ドッペル名:POKER・ALICE

退屈のドッペル その姿はデアデビル
称号:退屈は危険な遊戯のあとで

説明
この感情の主は安楽椅子に腰かけたまま平穏な人生に大いなる退屈を感じている。
このドッペルはデアデビル(命知らず)という架空の怪物の姿を模しており、主に眼前の危機を悟らせないために、両目を覆い隠している。
ドッペルは目下のところ無敗を誇っており、自信を圧倒する強敵が現れない現状に、主と同様の危険な退屈を覚えつつある。
そのため戦いは日々、背水の陣の度合いを増しているが、視界を遮られた主は鏡も安心して背中を委ねている。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「何、この気配」

退屈はやることがなくて時間を持て余している状態に嫌気がさしている、現在進行中の事柄に関心を失い飽きているという意味です。

魔法少女になる前は、恵まれた環境、待遇、能力であるにもかかわらず日々変わらない毎日に退屈してしまったからという贅沢な願いが反映されています。ゆきか自身、黒羽根になるという未来がなければ、再び魔法少女として退屈な日々を送るほどの実力を持っているのは確かです。

デアデビルは説明本文にもある通り英語で命知らずという意味があります。怪物と表現されていますが、海外ではコミックに登場する架空のヒーローを指します。
このヒーローは両目を失明し、四感とレーダーセンスで戦うというハンデを背負ったヒーローです。
ドッペルに関係があるのは、「命知らず」という意味だけでしょう。

POKER・ALICEは実在したアメリカの女性ポーカープレイヤーのあだ名であり、ポーカーゲームで負けたことがないことで有名でした。また、夫の埋葬費のために質に入れた結婚指輪を得意なギャンブルで稼いで取り戻したり、自分の楽しみとなることを邪魔する人物へは容赦なく銃を向けるなど挑戦的な人生を送っていました。

このドッペルへはギャンブルという退屈していたゆきかが知った新たな刺激が具現化された存在であり、一歩間違えればどん底に落ちるような結末が待っていたとしても刺激のために挑戦し続けます。そんな命知らずなドッペルです。
ゆきかもまた、それを望み、身を委ねているのです。



更紗帆奈のドッペル

更紗帆奈

ドッペル名:HUND BALOU

反駁のドッペル その姿はペット
称号:反駁を繰り返す混沌

説明
この感情の主は、借り物の力を使って人を支配することを覚えた。やがてそれは欲となり、歪な形で具現化した。
これは虐げられてきた過去に根差す復讐の異様であり、逆転して肥大した自己の投影でもある。そこに後ろめたさはなく、純粋無垢な狂気だけがある。
このドッペルは数多のリードで相対する者を拘束し、その巨大な手で叩き潰してしまう。そして、常に快楽で打ち震えている。

ドッペルに変化する部分
首の裏側

ドッペル発動時のセリフ
「出てきた」

反駁(はんばく)は他人の意見に反対し、論じ返すという意味です。考えが狂った帆奈はどんな魔法少女の批判的な発言を浴びたとしても、純粋無垢な狂気で論じ返す場面が多々ありました。能力の上書き、邪魔なやつを消したいという願いから生まれた性質ではなく、狂った帆奈の在り方が反映された性質となっています。

ペットといえば犬や猫、インコといった大切にし、かわいがるための動物を示す言葉ですが、果たして帆奈のいうペットとは何なのか。
多くの魔女を使役し、ペットとする術を手に入れた帆奈にとって、自分のドッペルもペットのように扱っているのでしょう。しかしそのドッペルは自分の写しであり、自分がペットであると考えることと同義でもある。

HUND BALOUはHUNDがドイツ語で犬を表し、BALOUが「くまのような」を意味するドイツ語圏で犬につける名前の一つです。つまり、このドッペルはクマのような犬という意味を持つペットのような名前となっています。

ドッペルがペットの名前であるということは、帆奈がドッペルをペットだと思っているのか、それともドッペルが帆奈をペットだと思っているのかどちらにしろ自分をペットとしか考えられないような闇の深いドッペルとなっています。





毬子あやかのドッペル

毬子あやか

ドッペル名:GELA

自然体のドッペル その姿は笑い袋
称号:自然体で抱腹絶倒の日常

説明
この感情の主は、大人しかった頃の自分を心の中に秘めている。常に笑い続けているこのドッペルは、自分にとって不都合なものが現れると、その体内にストレスを溜め込んでいく。そして、ストレスを笑い声に変えると、見たくないものを吹き飛ばしてしまう。右を見ても左を見ても笑い続けているので、ストレスの対象は千差万別。何に対しても機嫌を損ねているのかもしれない。もしも、世界そのものが笑い飛ばす対象だと思われると危険だが、主は無関係とばかりに袋の中で穏やかに眠っている。

ドッペルに変化する部分
頭部

ドッペル発動時のセリフ
「これもあたしの力」

自然体は気負いのない自然な態度、ありのままを意味する言葉です。あやかは願いによって変わった性格に満足しているようですが、どうにも後ろめたさを感じているようで自然体で明るい存在でいたかったというあやかの思いがドッペルへ反映されたのでしょう。
笑い袋は、巾着袋に入れられたレコーダーに笑い声が録音されていて、その笑い声を永遠と流すことで周囲の笑いを誘っていくというジョークアイテムのようです。
このドッペルは周囲の笑いを誘うというよりも、周囲を物理的に笑い飛ばす存在なのでジョークでは済まない邪悪な笑い袋です。
笑い飛ばす前にはストレスを溜め込んでいるようですが、あやか本人は鋼のメンタルである場面が多々あります。もしかするとストレスはしっかり溜まっていたのかも?

GELAはオノマトペである「ゲラゲラ笑う」の「ゲラ」を指していると考えられます。
ゲラゲラは大声を出して笑う様子を表していて、爆笑しているにも当てはまるでしょう。

 



眞尾ひみかのドッペル

眞尾ひみか

ドッペル名:BOND BOMB

離散のドッペル その姿は絆
称号:離散と貧しくも確かな家族愛

説明
この感情の主は自分の奥底に眠っている本当の想いをドッペルによってがんじがらめにすることで、安心感を得ている。
このドッペルは自分のエゴを球体に変え、家族の絆と柵を蛇の姿に変えてがんじがらめにし、無理やりその場に留めようとしている。球体は自由になりたいが、形を保っていられるのは、蛇に縛られているおかげでもある。無理に振りほどけば球体は弾け飛んで消えてしまうが、この感情の主はそれを絶対許さない。

ドッペルに変化する部分
右手首

ドッペル発動時のセリフ
「こいつも出すよ」

離散はまとまっていた人々が離れ離れになるという意味を持ちます。何が離散するのかというと家族のことであり、そんな離散することをひみかは許しません。
絆と言えば人と人の助け合うさまを表した言葉ですが、本来の意味はしがらみ、束縛という意味を持っていました。ひみかは家族との絆を大事にしていますが、その絆は自分の欲を束縛する存在でもあります。このドッペルもまた、その絆を体現しています。

BONDは縛るものという意味をもつ他、絆を意味し、BOMBはそのまま爆弾という意味を持ちます。
束縛された爆弾、という解釈ができれば絆の爆弾というとらえ方もできます。どちらにしろ縛られた爆弾という意味を持ちますがこのドッペルが爆発するときは、ドッペルで自分の欲を抑えられなくなったときでしょう。

爆発することは離散を許したことを意味し、このドッペルは役目を終えるのでしょう。主と共に。



江利あいみのドッペル

江利あいみ

ドッペル名:COLUMBINA

決闘のドッペル その姿は鉛
称号:決闘は燃ゆる愛情

説明
この感情の主は、愛情を内に抑えられない己と、燃え盛る愛情を鉛の体に抱えたドッペルとの間にシンパシーを覚えている。このドッペルは、主と同様にその愛情を抑えることができない上に、意中の相手に対して素直な行動を取れない性格でこじれてしまい、なぜか愛情を表現するために決闘を申し込んでしまう。その上、苦しむ相手を見るほど愛のボルテージが上がってしまうので、最終的には意中の相手を6000度の熱で焼き尽くしてしまう。ドッペルはそんな自分を、ハートどころか体までメロメロにしてしまうと思っている。

ドッペルに変化する部分
心臓?

ドッペル発動時のセリフ
「私の思いよ届け」

決闘は様々な目的のために相手に了承を得たうえで一対一で戦う行為のことです。恋愛は変に第三者が干渉してこなければ一対一の戦いであるととらえることは出来ます。とはいえドッペルへ愛情表現には決闘が必要と反映されてしまったようです。
鉛はそのままドッペルの見た目をさしています。実は鉛は6000度には耐えられず解けてしまうどころか沸点までも越えてしまうため抑えられないどころではありません。
鉛と言っておいて実は鉛ではないのでは。

COLUMBHNAには純情な乙女という意味があり、あゆみにちょうどよいドッペルの名前となっています。



若菜つむぎのドッペル

若菜つむぎ

ドッペル名:OBARIYON

偏食のドッペル その姿はバキュームクリーナー
称号:偏食と限りなき食欲

説明
この感情の主は、言うことを聞かないうえに、他人の食べ物まで横取りし吸い込んでしまうドッペルの卑しさに呆れ果てている。
このドッペルは相性の良い相手を見つけると主の指示は聞かず勝手に魔力を吸い始め、相手が死ぬまでその対象を変えない。無限とも言える胃袋を持ち、吸い込みすぎて自爆といったありがちな展開の心配はないが、魔力を蓄えれば蓄えるほど重くなってゆき、主を押しつぶしてしまうこともある。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「足りない、我慢できない!」

偏食は1日分の栄養素に偏りのある食事を意味しますが、このドッペルについては好き嫌いが激しいという意味よりも必要以上の栄養(魔力)を摂取しすぎるという意味の方が当てはまるでしょう。この過剰摂取する性質はつむぎの固有魔法が反映された結果です。
バキュームクリーナーは業務用掃除機のことであり、家庭用と違って様々なタイプのごみ(水分を含んだごみも問題なく吸い込む等)に対応できる特徴があります。
この何でも吸い込めるという在り方がドッペルの特徴と類似しています。

OBARIYONは妖怪の名前で、夜道を歩いていると背中におぶさってくる重たい妖怪です。おばりよんに耐えて家に帰ると背負っていた重さが富に変わるという言い伝えはありますが、お祓いしたいときは少しだけ残した弁当を憑かれたときにたいらげるという方法があります。
おばりよんという名がこのドッペルに与えられたのは、「空腹から来る妖怪」という特徴がつむぎと類似していたからでしょう。
つむぎ自身、「残すなら食べてあげるよ」と背中から抱き着きそうな性格はしています。

 



五十鈴れんのドッペル

五十鈴れん

ドッペル名:RENATA

電令のドッペル その姿は心電図
称号:電令する純粋な悪意への拒絶

説明
この感情の主は、強力な電気信号を駆使し相手の悪意を人格もろとも焼き尽くすこのドッペルの能力に恐怖を覚える一方で、これが殺害以外の方法で人間の悪意を根絶させることができる唯一の方法ではないかという誘惑に悩む。
またこのドッペルは生死を司る力を持ち、その姿を現す時に主は一時的に精神が肉体と分離した幽体離脱状態となる。

ドッペルに変化する部分
精神

ドッペル発動時のセリフ
「心を殺さないで」

 

電令とは、電報の命令という意味です。この場合の電報は、相手の悪意を焼き尽くすという電気信号のことでしょう。このドッペルの攻撃手段です。
姿が心電図なのは、人の生死の判断は、脈を図る心電図が一番正確だからです。れんが何度も世界が嫌になり、死のうとしている過去がある事から、生死を司るこのドッペルは主が死のうとしたらすぐに蘇生できるよう、常に心電図を備えているのです。そして心電図で「死」と判断された場合はすぐに蘇生のために電流を発し、主を蘇生させ、主を死に導いた悪意を電波で焼き尽くします。
まさに、自殺間際に「生きたい」と願ったれんの願いが反映されているドッペルです。

RENATAはオランダ、ドイツ語の女性名で「再生させる者」を意味します。死から再生させるこのドッペルにぴったりな名前です。



静海このはのドッペル

静海このは

ドッペル名:TAGORI

報復のドッペル その姿は、狐
称号:報復の蝶は躑躅の花にとまる

説明

この感情の主は様々な魔力を駆使し恨みある者達へ報復する。
このドッペルは三つ首狐拳のドッペルのひとりで報復の写し。魔法に長け怪火を操り相手を幻惑する。
例え水中であっても遺恨ある限りこの怪火が消えることはないだろう。
ドッペルの出現中、主は理性を失い、本能のままに行動しすさまじい跳躍力を発揮する。


ドッペルに変化する部分
首?

ドッペル発動時のセリフ
「これなら、どう」


報復は仕返し、復讐という言葉に置き換えられ、ひどいことをされたことに対してやり返すという意味があります。
このドッペルは3体そろって一つになるとのことから、アザレア組の願いの一つ、つつじの家を取り壊すことになった要因の排除が反映されていると考えられます。報復は願ったときの感情を映しているだけであり、このはが常に誰かに報復を考えているわけではありません。
姿が狐なのは、狐憑きから来ていると考えられます。狐憑きは精神が錯乱している状態を表す言葉です。ドッペル発動後に理性を失うことから、狐憑きの姿をしているのでしょう。

TAGORIはアマテラスとスサノオの誓約から誕生した宗像三女神の内のひとり、タゴリヒメから来ています。タゴリヒメのほかにタギツヒメ、イチキシマヒメがいます。
タゴリヒメは沖ノ鳥島に鎮座し続ける神であり、嫉妬深いとされています。また、鎮座し続けることが守ることであり、動いてしまうと災いを招いてしまうと考えがあるため、守ろうとすること以外はじっと動かないままでいるとされています。
このはの3人だけで生きていく、外部との関わり合いはよくないという考え方は、このタゴリヒメの在り方から来ているのでしょう。



遊佐葉月のドッペル

遊佐葉月

ドッペル名:TAGITU

返報のドッペル その姿は、蔵
称号:返報が下す不条理への雷

説明

このドッペルは返報の写し。この感情の主は恨みある者達への返報を忘れない。このドッペルは三つ首狐拳のドッペルのひとりで守りや補助に長ける。このドッペルは出現中、主をその場へ固定し、囮とする。その前ではどんな怪力であろうと赤子に等しく、うかつに攻撃を仕掛けてきた者を岩のような掌で捕獲しその体内へ閉じ込めてしまう他、無理矢理証文を取り不利な契約を相手へ押し付けたりもする。


ドッペルに変化する部分
手首

ドッペル発動時のセリフ
「手、借りますか」

返報は恨みに対して仕返しするという意味があります。これは、葉月の居場所であるつつじの家を潰そうとした連中を許さないという葉月の想いがドッペルへ反映されたからでしょう。

蔵という字には隠して表にあらわさないという意味があります。葉月の居場所について親戚にたらいまわしにされ、自分の感情や思いを隠すようになってしまったことから、ドッペルの姿が蔵になってしまったと考えられます。

TAGITUはアマテラスとスサノオの誓約から誕生した宗像三女神の内のひとり、タギツヒメから来ています。タギツという名は激流を意味する「たぎる」から来ているとされています。三女の中でもこれといった特徴は設定されておらず、イチキシマヒメからそれほど離れていない場所に祭られているということくらいしか情報がありません。
ただただ宗像三女神の次女の名前がドッペルに与えられただけでしょう。



三栗あやめのドッペル

三栗あやめ

ドッペル名:IHIKISHIMA

突貫のドッペル その姿は、引き金
称号:突貫する執念まとう弾子

説明

このドッペルは突貫の写し。この感情の主は恨みある者達目がけて確実に突貫する。ドッペルは三つ首狐拳のドッペルのひとりで力に長け、あらゆる魔法をねじ伏せる。ひとたびこのドッペルの引き金が引かれれば、相手へ命中するか主が力尽きるまで執念深く追い回すことになるが、一心不乱になり過ぎるせいでたとえ主であろうとも二度目の命令は受け付けず、周囲への被害も一切考慮されないため、呼び出す際には注意が必要。


ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「出てきてもらっちゃおう」

突貫は突き通すこと、突撃といった意味があります。これはあやめの一度やろうと思ったことは終わるまで歯止めが効かなくなる性格がドッペルに反映されたからでしょう。あち死の原因はいつもこの性格のせいだったりします。
引き金は銃器で弾を撃ち出す際に使用する部品で一度引き金が引かれてしまうと銃口の向く方向へ弾が撃ち出されてしまい、発射を止めることはできません。
一度決めたらすぐに突っ込んでしまうあやめの性格がドッペルへ反映された結果だと思いますが、本人自身は行動に移す前に思いとどまるという考えを持ってはいます。

IHIKISHIMAと記載されてはいますが、”ICHIKISHIMA”の間違いでしょう。
アザレア組のドッペルは宗像三女神を参考にされており、アザレア組三女であるあやめは宗像三女神の三女であるイチキシマヒメの名が与えられるはずです。
イチキシマヒメは三姉妹の中でも最も美しいとされています。
※ドッペル名は修正されました



アザレア組のドッペル

アザレア組(このは・葉月)

ドッペル名:UKEI

誓約のドッペル その姿は、狐拳
称号:誓約は躑躅燃ゆ夜明けに
導く

説明

この感情の主たちは、互いに制約ある疑似家族を続けてきたが、個を認め合うことで真にひとつになった。
このドッペルは決して崩れることがない分子の如く、三竦みという規則の中で結びついており、主たちが心から結びついた証。ゆえに岩以上に堅固で力強いばかりか、命が燃え尽きるまで突貫していくだけの執念深さと潔さを備えており、本能のままに行動しても寸分の乱れもない。それは遥かに伸びゆく剣の扱いにも表れており、剣が重くて動きが遅くとも、なぜか誰も避けられず叩き潰されてしまう。


ドッペルに変化する部分
このは:首?
葉月:手首

ドッペル発動時のセリフ
「私たちは三人で1つ」

誓約は固く誓い、約束するという意味でただの約束よりも強い効力があります。
なにがあったとしてもその約束を破ることはできず、また誓約を結んだ者同士も破ろうとはしません。
家族としての形にこだわらず、お互いの想いを大事にして支え合っていく大切さをしったアザレア組のドッペル同士が合体した結果、このドッペルが生まれました。
狐拳はじゃんけんと似た拳を使った三竦みのある勝負のことです。本来であれば3属性それぞれ持っていてどれにも対処できるから無敵!という立場になるのでしょうが、残念ながらこのドッペルは三竦みのうちの一つの属性になってしまってしっかりと弱点ができてしまっています。

UKEIは日本神話に出てくるアマテラスとスサノオが行った誓約のことです。とはいえ、もとは白黒はっきりさせるルールを決めて行う占いがうけいとされています。
この誓約(うけい)が行われた結果、タゴリヒメ、タキツヒメ、イチキシマヒメが生まれたとされています。
宗像三女神をもじったドッペルを持つ者同士が誓約を結んだ結果生まれたドッペルとしてこの名が与えられたのでしょう。



春名このみのドッペル

春名このみ

ドッペル名:HEIDESOMMER

緑化のドッペル その姿は、腐葉土
称号:緑化の愉悦に微睡の花笑む

説明
この感情の主は、このドッペルが緑を広めるために良い力を行使すると信じ込んでいる。土でできたドッペルの体は、あらゆる有機物を分解する酵素を保有しており、触れた者はことごとく腐って分解され、大地を肥沃にする養分になってしまう。また、大きく体をゆすりながら飛ばしてくる黒い綿毛が張り付いた者は、瞬く間に伸びる根に侵食され、植物に変えられてしまう。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「あなたの花、咲かせて見せて」

緑化は植物がない土地に植物を植えていくときに使用される単語です。緑化には自然を溢れさせるイメージがありますが、何も考えず緑化を進めるとかえって生態系が崩れる場合もあるとされています。このみのドッペルには、主であるこのみの植物好きな趣向が反映されていますがその行為が生態系を崩してしまいかねないことはお構いなしでしょう。
腐葉土は、植物を土の上で腐らせた結果出来上がった栄養満点な土のことです。植物本体ではなく植物が育つ土壌の姿をしているあたり、このドッペルは植物が増えていくことを喜びとしていそうです。このみ本人は自分の周りが植物だらけになることを望んでいそうな感じはしませんが。

HEIDESOMMERはバラに属する花の名前で、クリーム色の花を咲かせます。ちょうどこのみが魔法少女姿になった際に身につけている花が、このHEIDESOMMERに似ているのでその花の名前がドッペルにつけられたのでしょう。マギアでもHEIDESOMMERっぽい花が登場しますが、このみお気に入りの花なのかはわかりません。



綾野梨花のドッペル

綾野梨花

ドッペル名:BELLA DONNA

暴露のドッペル その姿は、自白剤
称号:暴露された傷だらけの宝石

説明
この感情の主は、人の心が簡単に変わってしまう現実を知ると、他人に不信感を抱く自分にも嫌気がさして苦しんでいる。そんな主の想いを知るドッペルは、裏表のある人間を許さず、誰に対しても本音を話すように論してくる。最初は美しい貝の姿をしているが、説得を拒否したり内面を見透かされたりすると、恐怖を覚えて本音を吐かせようとする。それでも無理だと判断すると自白剤を使おうとするが、注射針が太すぎて刺されたものが死んでしまうので、成功したためしはひとつもない。

ドッペルに変化する部分
下半身

ドッペル発動時のセリフ
「もやもやMAXだ」

暴露は秘密や悪事を暴くという意味の言葉です。これは梨花の願いからではなく、梨花が願った結果や願うきっかけになった出来事から生まれた、他人への不信感を抱きたくないという想いがドッペルへ反映された結果です。
梨花にひなのやれんといった適切な出会いがなければ他人への不信感でつぶれていたかもしれません。
自白剤は捜査機関が他人を自白させるために投与する薬とされていますが、その存在ははっきりとしていません。投与されるのは覚せい剤のようなもので、きもちが高揚することで色々話してしまうという噂程度の話はあります。
仮にこのドッペルが自白剤を投与したところで、された者は結果的に廃人となるか死亡してしまう末路しかないでしょう。

BELLA DONNAは毒性のある植物の名前で、ナチスドイツが開発したとされる自白剤にはこのベラドンナが使用されていたようです。
自白剤に使用された植物ということでドッペルにこの名前が与えられたのでしょう。
ちなみにベラドンナの花言葉は「人を騙す者の魅力」や「汝を呪う」です。

 



梢麻友のドッペル

梢麻友

ドッペル名:NAOMI

寵愛のドッペル その姿は、撫子
称号:寵愛と献上される愛らしさ

説明
この感情の主は相手を誑かすことによって心を操るこのドッペルの能力に戸惑い、これが自身の写しであることに思い悩む。
このドッペルに裾を引かれたものはこのドッペルを愛さずにはいられない。こと異性に関しては死をも恐れぬ献身と絶対の従属を強制することができ、たとえ相手が同性であっても、その愛らしさに手をあげることは難しいだろう。
しかし、この力の多様により自身への妄信的な虜を量産する行為は、いずれ身を滅ぼすことになる。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「なんで勘違いされるの」

寵愛は特別に大切にして愛するという意味があります。麻友には無意識に異性を引き付けては虜にしてしまうという天然の魔性の女です。
その危うさがまた異性に限らず同性も引き付けるという恐ろしい体質がドッペルには色濃く反映されています。この魔性の女体質は魔法少女でありながら持っているため、やろうと思えばその辺を歩くだけで家庭崩壊を招く魔女のような存在になることもできます。
しかし本人はしっかりと自覚をしていて、この体質を頑張って押さえているようです。

撫子は愛しい子という意味があり、この名前を持つ花言葉は「純粋な愛」です。恋の虜にしてしまうという性質が強調されています。

NAOMIは日本人の女性名として使用されています。そんなナオミという単語はヘブライ語で「私の喜び」を意味し、谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」の主人公の名前でもあります。この小説に出るナオミは電機会社の技師に意のままに教育され、多くの男たちを翻弄し、ひざまずかせる魔性の女になるという話です。
ドッペルのコンセプト的には痴人の愛という小説に登場するナオミがモチーフになっていると考えることができます。もしヘブライ語の意味とダブルミーニングだとしたら意図して男を翻弄していることになります。
とらえ方によっては恐ろしいドッペルです。



史乃沙優希のドッペル

史乃沙優希

ドッペル名:GANNISHIKUDOKU

職責のドッペル その姿は、短刀
称号:職責とお友だちに会える場所

説明
この感情の主は他人から寄せられる過度な期待と羨望、巨大で勝手な好意の群れを、その身で抱え込むのが責務だと思い込んでいる。このドッペルはいつか主の心が尽きてしまい責任を果たせなくなったその時、最後の務めを手助けするために存在する。このドッペルの力の全ては基本的に主一人のために存在するが、慈悲深い性格のため主と共に旅立ってくれる道連れを1人だけ選定してくれる。ついうっかり道連れ役の者だけを先に旅立たせてしまうこともよくあるが、そこはご愛敬。

ドッペルに変化する部分
武器(マイク)

ドッペル発動時のセリフ
「沙優希は友達が」

職責は「やるべきこと」、「求められていること」に伴う責任を表す言葉です。ドッペルの説明文にもある通り、沙優希にとっての職責は「みんなを楽しませること、楽しいという気持ちを共有させること」であり、アイドルとしての心得がドッペルへ反映されています。
刀には刃の長さによって種類が異なり、短刀はナイフにあたる使い方がされています。この短刀は護身用として持ち歩くほか、切腹にも使用されていました。しかし短刀での切腹では即死することが困難であり、近くには切腹したものが苦しまないようすぐに首を切り落とす介錯人が傍にいる場合が多いです。このドッペルの場合は、介錯人がなぜか道連れ役の者から首を落としにかかります。

GANNISHIKUDOKUは「願以此功徳(がんいしくどく)」のことであり、仏教の用語です。その意味は自分が実施すべき「人のためになる良い行い」をすべての人に施して、ともに成仏したいと願うもの。一言で言えば「物事の終わり」を意味します。
沙優希が願った際の本意とはまったく違った方向へと進んでしまっているドッペルですが、あくまで主の感情の写し。楽しい気持ちを共有できなくなることは沙優希にとって「終わり」を意味するとすでに腹をくくっているのでしょう。



千秋理子のドッペル

千秋理子

ドッペル名:YUERAO

手繰りのドッペル その姿は、月下氷人
称号:手繰る憧憬はお弁当の中に

説明
この感情の主は、このドッペルが自身の心に潜むことを認めない。
このドッペルは、主の足元に厚い氷を展開し、その氷の中に出現する。攻撃時にはドッペルと主が入れ替わることで氷上へも出てくるが、その間、主は逆に氷中に閉じ込められてしまう。
氷上へ現れたドッペルは、あらゆる縁を手繰り寄せ奪い取る。
このドッペルは一度は自分で結んでしまった縁を回収することで現状の回帰を目論むが、一度繋がってしまった縁を今さら切断しても、ただ相手を氷の底へ沈めることにしかならないだろう。
このドッペルを使えば使うだけ、諦めていたはずの想いが主の心中に去来する。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「わたし、寂しいのは嫌」

手繰りは手で繰ること、手から手へ受け渡して物を運ぶ意味があります。この場合の手繰りは理子が尊敬するお姉さんに結婚するという縁が巡ってくるよう手繰り寄せた願いであることが影響しています。しかしこの願いによって理子はさみしい思いをするようになってしまいます。

月下氷人は男女の縁を取り持つ人のことを指します。理子が願わなければ、お姉さんは結婚することができなかったでしょう。

YUERAOは「月老」のことであり、縁結びの神を示したり、結婚の仲介人という月下氷人と同じ意味を表します。このドッペルは理子が願ったお姉さんの結婚を実現したいというただ一つの願いから生まれた、お姉さんを結婚させるための存在なのです。
他人のために願った結果、自分への見返りどころかさみしい気持ちを手繰り寄せてしまったことから一度後悔しそうになってしまいます。
一度は立ち直った理子を、ドッペルは発動するために結婚の仲介人という役割をなかったことにしようとし、そのたびに胸の中に押し込めた感情を理子に呼び覚まさせます。
まさに呪いから更なる呪いを手繰り寄せる恐ろしいドッペルです。



安名メルのドッペル

安名メル

ドッペル名:ETTEILLA

開示のドッペル その姿は、ト者
称号:開示された導きのタロット

説明
この感情の主は依頼者であり請負人。明確に運命を示すドッペルのことを自身の内なる真の力だと思い、示された運命を否定しない。
手首と背につながるこのドッペルは、常に主の鼓動を感じながら脈を測って同調し、互いの行動や感覚を一致させることで、決して揺れることがない運命を示す。その結果は開かれた目に描かれており、瞳の中心に映ったタロットカードの種類と向いている方向によって決まる。
主とドッペルが示された運命から逃れるのは並大抵の努力では不可能。

ドッペルに変化する部分
背中、右腕

ドッペル発動時のセリフ
「ぼくの中から漆黒が」

開示とは明らかに示すこと、教えを説き示すことを意味し、運命を明確に示してしまうというメルの固有能力が反映されています。
卜者(ぼくしゃ)とは占い師を指す言葉であり、メルの様そのままが反映されています。まさにメルをそのまま映し出したかのような存在だとわかります。

ETTEILLAはタロット占いを多くの人に広めたフランスのオカルト主義者です。
タロット、占星術、四体液説(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四種)、四元素を織り交ぜた彼独特の考えで行われた占いがタロット占いです。
そして彼は占いによって生計を立てるプロのタロット占い師となったのです。
おそらく占い師として生きていきたい、オリジナルのメソッドで占いをしたいというメルの願いがドッペルへ色濃く反映された結果です。そんな様がETTEILLAと重なるため、この名が与えられたのでしょう。



小町みくらのドッペル

小町みくら

ドッペル名:TABURATSU

土葬のドッペル その姿は、副葬品
称号:土葬された過去へのレンズ

説明
この感情の主は、物質のみならず感情や記憶に概念的なものまで埋めてしまうドッペルに、小さくない安堵感を抱いている。
土の中から現れるこのドッペルは、埴輪型のビーコンを使用して自分の陣地を作ると、そこに向かって大量の土砂を降らせて古墳を作り上げてしまう。その土に触れたものは目に見えるものでなくても、何かを埋葬されて失っている。
こうした行為はこのドッペルにとっては善意であり、全ては主のためである。だが、感情の主がそれに気づいているかはわからない。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「来たのね、その時が」

 

土葬とは死者を弔う埋葬方法の一つであり、土へ直接埋める方法と棺に納めて埋める方法の二種類がありますが今回は古墳関係であるため棺に納めて土へ埋める方を指します。
古墳の発見に関わる願いを行ったためかドッペル自ら土葬を行って古墳をどんどん作り出してしまい、みくらを満足させようとします。

副葬品は死者とともに埋葬されるもののことです。大昔は実際の人間や動物を殺して権力者の墓へ埋めるということを行っていましたが、その行いが見直されて権力者に関わる人物、ものをかたどった埴輪が副葬品として納められるようになります。
ドッペル自身が副葬品であるということは、みくらが死んでも墓までついていくという執念深さを感じ取ることができます。

TABURATSUとはたぶらつひめを指し、日本書紀に記述されている土蜘蛛の巫女女王です。たぶらつひめは蜘蛛塚という古墳に葬られたとされています。
実はこの蜘蛛塚はみくらが発見した元前方後円墳と同じ境遇であり、月日が流れて道づくりによって二分化された古墳なのです。
みくらが発見した古墳と境遇が似ているため、ドッペルへこの名が与えられたのでしょう。



観鳥令のドッペル

観鳥令

ドッペル名:PAPARAZZO

ゴシップのドッペル その姿は、二眼レフ
称号:ゴシップと歪められぬ真実

説明
この感情の主は欲求の赴くままに真実を求め続けた。ドッペルもまたその思いに過剰なまでに応え、ただ相手の全身を撮影するだけでその真実を曝露する。
このドッペルに暴き見られた真実は決して忘れることは出来ない。それはこのドッペルがもつ二つのレンズが見据える被写体と撮影者の双方に適用され、怒りを暴けば同じだけの怒り、悲しみを暴けば同じだけの悲しみが双方の記憶へ焼き付けられるだろう。
このドッペルを使用し続ければ、その能力で相手を暴き尽くさない限り心を許すことができなくなってしまう。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「証拠が必要なんだ」

 

ゴシップはそのまま訳すと噂話や陰口といった意味になりますが、マスメディアが取り上げる有名人や組織の不祥事、衝撃的な事実南下を取り上げる際もゴシップという言葉で表現されます。
令は家庭自体がゴシップと縁がある環境だったためゴシップと共に育ったと言っても過言ではありません。そんな令の生き様がドッペルに反映されたのでしょう。
二眼レフは覗き込んだ時の映像を捕えるための上レンズと、被写体をフィルムに焼き付けるための下レンズという役割を持たせた2枚のレンズを備えるカメラです。
デジタル化が進んだ時代にとっては骨董品にふさわしい品ですが、ドッペルにとってゴシップ記者がもつカメラといえば二眼レフだと思うところがあったのでしょう。
ちなみに令は普通に近代的なカメラを使用しています。

PAPARAZZOはよく使われる「パパラッチ」の単数形です。ネタになる人物や物を追いかけてゴシップ写真を撮ろうとするカメラマンのことを意味しますが、ドッペルは群れていないので単数形で間違いはないでしょう。



雪野かなえのドッペル

雪野かなえ

ドッペル名:GIBDAUGHTER

共鳴りのドッペル その姿は、ハチドリ
称号:共鳴りするギターの調べ

説明
この感情の主は、よく響く体をもったこのドッペルを悪くないと思っている。
このドッペルは如何なる物質であろうとも固形物であれば自身の歌声で共振させ、破壊してしまう。また生物に対しても歌声で脳を揺らし超音波で振動させたクチバシと精密動作で心臓を一突きとしてしまえるだろう。

ドッペルに変化する部分
親指

ドッペル発動時のセリフ
「私が乱してしまった」

共鳴りは振動体などに外部から振動を加えると連動して振動する現象のことであり、電気振動の場合は共振とも呼ばれます。また、他人の行動や思考に同感することも意味します。
願いとの関連性としては、願いの対象とする男のグループを起点として共鳴するように関係グループが根こそぎ潰れたという結果があります。また、かなえ本人に対してはやちよのおばあちゃんに触発され、どんどん性格が柔らかくなっていったのも共鳴が影響していると考えられます。
ハチドリは、ハチドリの種類の中に超音波を発するものがいることから採用されたと考えられます。

GIBDAUGHTERは造語です。それもそのはずであり、ギター関係でgibsonという会社があり、son(息子)からdaughter(娘)へと置き換えたものとなっています。
直訳だけでは導き出せない由来です。



香春ゆうなのドッペル

香春ゆうな

ドッペル名:VICTORIA

不満のドッペル その姿は、コンポート
称号:不満を零す令嬢の空白

説明
この感情の主は、キレイな佇まいをしながらも自身の欲求を満たすために醜くなるドッペルを冷ややかな目で見ている。
このドッペルは自分が豪奢で美しいことを理解しているばかりか、自分自身が免罪符だと思っている様子。そのため自制が効かず、興味を持ったものは”あの手この手”を尽くして手に入れようとする。特に初めて見るものへの執着は強い。だが、欲求を腹で満たすクセがあり、気になったものを胃の中に入れてしまう。よってこのドッペルは、自分が興味を持った対象の味しか覚えていないらしい。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「わたくしには何もない」

不満はありきたりなことばかりで満足していないことを意味します。自分は恵まれた身でありながら平凡な日々に不満を持っているゆうなの考えが反映されています。
コンポートは今回の場合、果物や菓子を盛るための脚付きの皿のことです。

VICTORIAはヨーロッパ系の女性名として使用されます。
勝利の女神の名前でもありますが、聖女様のようになりたい少女は、何に勝利すべきなのか。



飾利潤のドッペル

飾利潤

ドッペル名:TROLLEY

郷愁のドッペル その姿は、残影
称号:郷愁呼び覚ます駄菓子の味

説明
この感情の主は、レトロな情景やアイテムを揃えているドッペルに惹かれながらも、その魅力に吞み込まれないように一線を引いている。
このドッペルは時の経過を拒んでおり、懐かしい景色の中に居座り続けている。それ故に同じ時間を繰り返しており、常に時を共有する家族のような存在を求めている。主はドッペルの意思を理解しているので、後ろから常についてくるドッペルの姿を振り返って見ようとはしない。だが呑み込まれた人いわく、童心に返って溶けていくような心地良い時間を過ごせるらしい。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「時代遅れってか」

郷愁は過去のものや遠い昔に惹かれる気持ちという意味です。現代風なものよりも駄菓子屋の駄菓子屋やヨーヨーといったレトロなものを好む潤の気持ちがドッペルへ色濃く反映されています。
残影はあるものを思い起こさせるようす、面影といった意味があり、このドッペルが持ち合わせているレトロな情景そのもののことを指しています。しかし残影という言葉は幻という意味にもとらえることができ、いくらドッペルが懐かしさの塊だとしても実体はそこには存在しないのです。

TROLLEYには手押し車の他、運ぶといった意味があります。
このドッペルに乗って運ばれてしまうと、永遠に同じ駅をぐるぐる回りそうです。



アシュリー・テイラー(日本版)のドッペル

アシュリー・テイラー

ドッペル名:ZIPZAP

信仰のドッペル その姿は、kawaii
称号:信仰されるべきKAWAII

説明
この感情の主はKAWAII文化に溺れて染まり、それを発信することにも至高の悦びを感じているので、自身の映しであるドッペルを満悦の表情で眺めている。
このドッペルは主の趣味と情報発信意欲を十分理解しており、漫画やアニメといったポップなものから、ゆめかわやグロかわなどのサブカルチャーまで、洗脳して植え付ける活動に邁進している。主よりKAWAIIレベルが劣る人を見つけては6つの目から七色のビームを放ち、当たった人は大量のリボンとレースに巻き込まれて趣味や嗜好を改変される。その人たちは、このドッペルを見ると地に頭を付けて崇めるらしい。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「Daddy、ごめんなさい」

信仰はあるものを「絶対的な存在」として信用すること、よりどころとすることという意味があります。父親の反対を振り切ってまで日本のkawaiiを求め続けた、そして父親と死別してしまったアシュリーにとってkawaiiはアシュリーの絶対的な存在です。また、kawaiiを多くの人に知ってもらいたいというアシュリーの考えが反映されてかドッペルはkawaiiを布教する存在となっています。
そんな布教する側であるドッペルはアシュリーの思うkawaiiが込められた姿をしています。
果たして洗脳された存在はkawaiiを信仰しているのか、それともkawaii”ドッペル”を信仰しているのかは謎です。
ちなみにkawaiiはcuteとは違った日本で生まれた独特の可愛さを表現する言葉として用いられています。

ZIPZAPは俳優育成の際に行われるゲーム形式の訓練名です。
参加者が円形に集まって手振りと言葉を使用してリレー形式で言葉を回していくという内容です。
右隣の人へバトンを渡す際は右隣の人へ右手を差し出して「zip!」と
左隣の人へバトンを渡す際は左隣の人へ左手を差し出して「zap!」と
左右ではない別の対象の人へバトンを渡す際は対象の人へ両手を差し出して「boeing」と声を出す
といったルールがあります。
このルールに従ってミスをしないよう素早く次の人へバトンを回すという行為を繰り返すことで集中力、反応力、そして声出しといった俳優に必要な能力をゲームにて養うことができます。
kawaiiをどんどん伝播させる、両親が俳優関係の仕事だったという要素がこのドッペルの名に反映されたと考えられます。そしてドッペルの姿も、どこか6人が円形に集まっているようにも見えます。
きっとドッペルは攻撃相手に対して「boeing」と言いながらビームを放っている気分なのでしょう。



牧野郁美のドッペル

牧野郁美

ドッペル名:SYLVIE

衆目集めのドッペル その姿は、ゼンマイ人形
称号:衆目集めと笑顔届けたい舞台

説明
この感情の主は、他者の笑顔を求めることと、自身が求められることを僅かでも同一視してしまった。
シンバルをめちゃくちゃに打ち鳴らし、その音に気を取られた者達の目玉へアンカーが撃ち出される。音によって呪いをかけられた者をアンカーは何処までも追ってゆき、必ずその眼球を奪うだろう。
このドッペルを使用し続ければ、常に誰かに見られていないと不安を感じるようになってしまう。

ドッペルに変化する部分
目、足

ドッペル発動時のセリフ
「わたしたちの夢なのに」

衆目集めは多くの人に目を向けられること、大勢から注目されることを意味します。多くの人に求められたいという思いが反映されたドッペルなのですが、注目を集めようと郁美は奮闘するにもかかわらず、注目してくれた人の目をドッペルは潰してしまっています。これによって郁美はもっと注目を浴びないといけないと思い込み、どんどん誰かに注目され続けないと落ち着かなくなるというドッペルの思惑にはまる仕組みとなっています。
ゼンマイ人形は螺旋状の素材が元に戻ろうとする力を利用したゼンマイの機構が使用された人形のことです。これは、注目を集めたいという行為を続けられるようにするドッペルの在り方が反映されています。注目を浴びていると実感する程ゼンマイは回されていき、回された分だけ、ドッペルは人の目を潰し続けるのです。

SYLVIEは主にフランス語圏で使用される女性名であり、ラテン語の「森から」という言葉が語源とされています。



三輪みつねのドッペル

三輪みつね

ドッペル名:CLAUDIA

悪あがきのドッペル その姿は、カーテンレール
称号:悪あがきは薄暗い部屋の中で

説明
この感情の主は、隠れるのに都合が良いドッペルがお気に入り。偽り続けて疲れた心と体を癒すために、中に身を潜めることができる。
ドッペルも本当の自分を隠すのに躍起になっているので、主の気持ちを理解しながら、本性を見せ合った運命共同体だと思っている。もしも中を暴こうとする者が現れたら、その身に纏ったカーテンと鋭い体で必死に抵抗し、見てしまう者がいれば、決してその生存を許さない。機嫌が良いときに一人で躍ることがあるらしいが、それを見た者は主以外にはいない。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「見ないで、私じゃない!」

悪あがきは結果が見えていることに対してあれこれ焦って試す行為のことです。
自分は相手とフレンドリーに話せない性格であるにもかかわらずゲーム内や魔法少女の時はフレンドリーな人物として偽ろうとするみつねの考えがドッペルに反映されています。
カーテンレールの姿をしているのは、誰ともかかわりたくない、姿を隠したいというみつねの思いが反映された結果でしょう。

CLAUDIAはヨーロッパ系の女性名として使用され、フランス語圏で使用されるクロードという名から派生したものです。ちなみにクロードという名は「足の不自由な」というラテン語から来ているとされています。



桐野紗枝のドッペル

桐野紗枝

ドッペル名:RUKH

成り上がりのドッペル その姿は、ポーン
称号:成り上がりは鉄仮面の彼方

説明
この感情の主は、殻を破って自己革命を起こすドッペルの姿に自分の未来を見る。
ドッペルは誰の力も借りずに力を得たことを誇りに思っており、その自信のためか、他者の助言は一切受け付けない。それは主に対しても同様で、意見がうまく噛み合っているときこそ協力的だが、一時に食わないことがあると頑なに頭を縦に振らない。
また主以外の者たちに対しては、たとえかつての自分と同様に弱いものであったとしても容赦なく、意に反する者がいれば灼熱で包んだ杖で串刺しにしてしまう。
それを主は、弱い自分を思い出して怖くなるからこその虚勢だと思って見ている。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「演じ続けなきゃ」

成り上がりは貧乏人が急にお金持ちになった様子を表す言葉で、あまり良い意味では使われません。これは貧乏人から脱却したいと考えている紗枝の想いがそのまま反映された結果でしょう。
ポーンはチェスの歩兵に当たるコマのことです。ポーンは前へ進むことしかできず後戻りはできませんが、敵陣の最奥に到達すると昇格して上位の駒へと変われるという性質があります。どうやらこのドッペルは昇格後のポーンを表しているようで紗枝の到達したい先にいる状態です。しかし紗枝を到達した先へは導いてはくれないようです。

RUKHは戦車を意味するチェスの駒の一つです。ルークはポーンとは違って上下左右自由に移動できるコマであり、キングとの位置変更を行える便利な存在です。なぜクイーンへ成り上がらなかったのかは謎です。
ちなみにRUKHはアラビア語表記でのつづりです。



水樹塁のドッペル

水樹塁

ドッペル名:GRIM

盲目のドッペル その姿は、第三の目
称号:盲目なれど真実を映す天門眼

説明
この感情の主は秘めたる自身の姿の体現に悦びを覚えながら、真の姿を偽り続ける必要がないことに開放感を覚えている。
このドッペルは、決して隠れず自らを偽ろうとせず、ありのままの姿をさらけ出して他者の介入を言葉の一つまで許さない。否定する者は開かれし目によって闇の業火に焼かれ、堕天せし剣によってその身を刻まれる。実はそれは他人の目を気にする主を踏みとどまらせないための行為らしいが、主自身はそれに全く気付くことなく、敵を撃ち砕く姿に酔いしれている。

ドッペルに変化する部分
左目

ドッペル発動時のセリフ
「魔法少女になったところで」

盲目は目が見えないことのほかに、比喩表現として物事の分別がつかなくなることを意味します。塁は飼い猫の盲目を直すために願いましたが、ドッペルが主をどんどん盲目にさせるというのは皮肉な結果です。
第三の目は別名サードアイとも呼ばれ、第三の目が開くと第六感を開花することができ、直感が冴えるとされています。塁が魔法少女となった際に手に入れたのは相手の思想が見えるという能力ですが、それも第三の目の一種なのかもしれません。

GRIMは恐ろしい、厳しいという意味がある英単語であり、グリム童話の”GRIMM”とは異なります。ただの単語がドッペルの名として使用されるのは珍しいです。
塁の「真の姿がばれるのは怖い」という考えがそのまま反映されたのかもしれません。



真井あかりのドッペル

真井あかり

ドッペル名:MARY

退行のドッペル その姿は、遊園
称号:退行は消せない恋情の裏返し

説明
この感情の主は、ドッペルを誰にも見られたくない童心に帰られる場所だと思っている。このドッペルは心に潜んでいる幼い心を引き出す力を持っており、触れられた者は幼児が楽しむようなことでも楽しくなって、あらゆるストレスから解放される。だが、一緒に遊んでとりこになると、ドッペルの口が楽園への入り口だと感じるようになり、中に入った者は二度と戻れなくなってしまう。それでも定員数はあるので、あまりにも多くの人数が口の中に入ってしまうと、ドッペルも苦しんで吐き出してしまうことがあるらしい。

ドッペルに変化する部分
なし(ドッペルに掴まる形)

ドッペル発動時のセリフ
「早く大人に・・・」

 

退行は後方に下がるという意味以外にも、発達段階が発達する元に戻ってしまうという意味もあります。あかりのドッペルの場合は後者の意味が当てはまり、お兄さんへの恋する気持ちを諦めたくないというあかりの心情がドッペルに反映された結果だと考えられます。
遊園は童心に帰って遊べる場所です。大人になりたいと思っているあかりに対して童心に帰そうとするドッペルは、罪な存在かもしれません。

MARYは英語圏で使用される女性名で、由来はキリストの母であるマリアだとされています。
ちなみに遊園地で兄が人質に取られた妹を奪還するというストーリーが存在する『メアリーと遊園地』という曲が存在します。
あかりがもっているのはお兄さんに大人として見てもらいたいという願望のため、少し設定は異なりますが使われている要素が似ているためもしかしたら、と考えてしまいます。



南津涼子のドッペル

南津涼子

ドッペル名:GOSIRSA

愚直のドッペル その姿は、牛車
称号:愚直に進む正義の第一歩

説明
この感情の主は自身の真っ直ぐさを信じながらも、融通の利かない自分の性格が災いして八方塞がりになってしまう未来に気付いている。
ひたすら前を向いて直進するこのドッペルは、体より気持ちの方が急いでしまって、いつも前のめりに倒れそうになっている。しかし、倒れないように車輪付きのアームで支えているので、物理的に止めるまでは決して止まることがなく、障害物があったとしても、ノコギリ型のアームで破壊していってしまうらしい。
そんなひたむきなドッペルは、主にとって自己を肯定する役割を果たしている。

ドッペルに変化する部分
影(ドッペルに掴まっている)

ドッペル発動時のセリフ
「世界の平和か、私の幸せか」

愚直は正直すぎて気が利かない、馬鹿正直という物事に真っ直ぐすぎて融通が利かないという悪い意味で使用される言葉です。涼子の愚直な様子はさくやが敵でありながらひたすら助けようとした時に出ていて、そんな涼子の在り方がドッペルに反映されています。
牛車は牛に牽引させる車のことであり、乗る人物の身分によって乗り心地や装飾が違います。残念ながらこのドッペルの牛車は闘牛が目標に向かってひたすら疾走するような振る舞いをします。

GOSIRSAは牛頭をサンスクリット語にした時の読み方です。
牛頭は仏教思想の地獄に登場し、地獄で囚人を責めいじる鬼「獄卒」という役割を持っています。獄卒は罪を償わせる、囚人の苦しむ姿を楽しむという欲が絡む意思のもとで動いているのではなく、ただだた責めいじります。
自己肯定のために存在するこのドッペル自身は無情な存在かもしれませんが、それは主である涼子さえも無情に導く地獄送りな牛車であることも意味します。
愚直な涼子は、ドッペルを、自己を否定しない限り地獄行きの未来から逃れられないのです。



入名クシュのドッペル

入名クシュ

ドッペル名:HEPIALIDAE

垂涎のドッペル その姿は、蛾
称号:垂涎少女は粛清の幻夢に眠る

説明
この感情の主は、うつらうつらと夢を見ながら、太陽の光を求め続ける。
丸く円を描いたこのドッペルは、まさに主が求めている太陽を象った存在で、辺りを照らそうと漂い続けている。しかし、羽から鱗粉をまき散らしながら周囲を明るく照らそうとしても、鱗粉の一粒は彼方にある星々のような小さな輝きを放つばかりで、強い明かりを放てない。満足ができないドッペルは自ら光線を放って鱗粉を強く輝かせようとするが、乱反射した光はエネルギーを蓄えて爆発し、周りを巻き込んでしまう。それでもドッペルは、刹那でも強力な光を見て満足している。

ドッペルに変化する部分
背中、足

ドッペル発動時のセリフ
「お姉さん・・・」

 

垂涎は食事を目の前にして垂れてしまうよだれを指す単語でもありますが、クシュの場合はあるものを手に入れたいと熱望するという意味に当てはまるでしょう。
クシュは魔法少女になる前、朝が来ない日々を願いました。
しかしその結果に満足できず、魔法少女になってからは日の光を求めるという願った時とは逆のものを求めるようになってしまいました。
ドッペルにはクシュの願いではなく、魔法少女になった後の昼間に活動できた頃に戻りたいという想いが反映されています。
見た目が蛾なのは、蛾が主に夜に活動する虫だからでしょう。

HEPIALIDAEはコウモリガ科の蛾のことであり、夕方から活動を始めます。
名前にコウモリが付いていて申し訳なさ程度の吸血鬼要素を感じられますが、活動時間や名前にコウモリが付いていること以外はクシュにあまり関係なさそうです。
ちなみに蛾が街灯に集まるのは、月や星の光を背に向けて飛ぶ習性が空回りした結果らしいです。なのでクシュが求める日の光とはあまり関係ない習性です。



水名露のドッペル

水名露

ドッペル名:KOMATSU

天誅のドッペル その姿は、藁武者
称号:天誅へ導く天の川

説明
この感情の主は、豊穣による民の救い望みながらも、その心の裏側に家族の復権を望むという利己的な想いを隠している。このドッペルは主の本心を表すがごとく、藁に欲の火を灯して己の敵を炙り出しては硬い手足で捕食する。その姿は残忍で主が止めようとしても歯止めは効かず、己の価値を高めるために必要な獲物を探して狩りを続ける。すべての藁が燃えきってドッペルが消えると、周りに残るのは凄惨な光景ばかりだが、そこには少しだけ美しい野花が残っているらしい。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「水名の民が」

天誅はよく悪者を裁く際に発せられる言葉ではありますが、その意味は「天にかわって罰を与えること」です。
藁武者という言葉は存在せず、藁で作られた武者は藁人形の分類にされています。藁人形といえば呪いをもたらすための道具です。戦では敵を攪乱する目的で用意された例があるようですが、地域によっては晴ごい(雨続きの天気を晴にする)のために武士姿の藁人形を作るようです。
残念ながらこのドッペルは藁が燃えきるまで己の価値を高めるための行動を取り続けるのでどちらかといえば災いをもたらす存在です。
露の利己的な想いが反映されたドッペルで天誅と言われても、そこに正義があるのかが疑わしくなってしまいます。

KOMATSUは戦国時代に存在したとされる小松姫から来ていると思われます。
小松姫は本多忠勝の娘で、剣術を学び、その生涯では甲冑を着て敵の前に立ちふさがったことがあるようです。
戦国時代に剣術を扱えた女性ということでドッペルにこの名が与えられたのかもしれません。



千鶴のドッペル

千鶴

ドッペル名:KOGETSU

仇討のドッペル その姿は、虚無僧
称号:仇討が分かつ灘の声

説明
この感情の主は、愛する友人を斬った手を眺め続けるうちに、未来永劫描かれなくなった思い出の続きを見るために目を閉ざした。このドッペルは、遮った視界より飛び出した幻想の珠。皮膚より溢れる記憶の雲と、甘美で芳しく香る喜びの花に満たされている。その核となる部分は触れてはならない果実であり、近づこうとするだけで仇として龍に食われて汚い墨汁にされてしまう。もしも珠の中より覗き見る者と目を合わせてしまうと、ドッペルの恨みが脳を貫き、しばらくは不安定な心に悩まされることになる。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「虚しいな」

仇討は主君や自分より前の世代の親族を殺されたとき、相手に復讐することという意味です。
虚無僧は天蓋という深編笠をかぶって八尺を吹きながら物乞いをして回る僧です。八尺を吹くのは悟りを得るための行為だと言われています。


千鶴のドッペルは露を失ったことが原因で生まれた虚しさが反映されたドッペルで、露が千鶴にとってどれほど大きな存在であったかを知ることができます。
願った際の仇は水徳寺の僧侶であったはずですが、ドッペルは近づこうとするあらゆるものを仇と扱うようになってしまったようです。

KOGETSUは孤月のことだと思われ、孤独そうに見える月のことです。



エボニーのドッペル

エボニー

ドッペル名:APEBIS

懐疑のドッペル その姿は、ハゲワシ
称号:懐疑の砂漠に刻む足跡

説明
この感情の主は、生まれた時から王に臣従する人生を強いられている。しかし、それ以外の生き方があることに気付くと、葛藤に苛まれた。このドッペルはそんな葛藤に起因して常に揺らぎを生み、それは翼を羽ばたかせることによって周囲にも伝播して心の中に迷いを生じさせる。迷いはすぐに膨れ上がり、喜びと悲しみ、希望と諦観、尊厳と侮蔑など、様々な二項を生み出しては混沌を呼ぶ。やがて臨界点を迎えると混沌は溢れかえり、すべてを無常へと連れ去っていく。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「心が揺れる」

懐疑はなにかに疑いを持つこと、意思決定に十分な根拠がなく動揺している心情を表す言葉です。ドッペルの説明にある通り、このドッペルはエボニーが自分の生き方に疑問を持ち始めた頃の心情が反映されています。
魔女化という結末を迎えたかどうかは定かではありませんが、少なくともこのドッペルを出している間は自分の生き方に対する疑いは晴れていない状態でしょう。
ハゲワシは古代エジプトにて神の使者として崇められていたようです。なぜそれがドッペルの姿として採用されたのかは謎です。

 

APEBISという言葉はどこにも存在せず、エジプト神話における悪の化身「アポピス」をもとにした造語と思われます。
アポピスの姿は蛇として描かれるためハゲワシの姿をしたこのドッペルを考えるに、このドッペルではアポピスそのものを表しているとは考えにくいです。
ちなみにハゲワシは混沌をもたらす象徴としては扱われておらず、死者の死肉をついばみ、その魂を天国へ連れて行ってくれる存在とみられていたことがあったくらいです。

 



オルガのドッペル

オルガ

ドッペル名:DREKKA MINNI

喪失のドッペル その姿は、空船
称号:喪失の先に誓う明日

説明
この感情の主は、双樹のように育った妹を失い、虚ろな心を抱えている。そして、無くなった半身を探し求め、あてどなく彷徨っている。ドッペルはそんな主を目的があって目的が存在しない無限の旅に連れていく。乗船するのは主のみで、船に近寄る者があれば、たちまち心は波にのまれてしまい、ドッペルの後を亡霊のようにただついていくようになる。

ドッペルに変化する部分
下半身と両腕

ドッペル発動時のセリフ
「どうして」

喪失は何かを失うことを指す言葉で、このドッペルにはオルガがガンヒルトを失った喪失感が強く反映されていることが分かります。ドッペルに存在する旗にはガンヒルトの文様も一緒に描かれていることから、一緒に船で旅に出るという夢もドッペルへ反映されているのかもしれません。
空船は誰も、そして何も載せていない船のことです。
オルガの虚しさが反映された結果かもしれません。

DREKKA MINNIですが、「乾杯する記憶」ととらえることができます。
古ノルド語(北欧神話やルーンで使用されていたらしい)でDREKKAは「飲む」という意味があるようでそれを指す言葉が当てはまります。
MINNIは「私の」という意味もありますが「記憶」を指す言葉でもあるようです。
ここから、このドッペルの名前は「乾杯する記憶」と言えるほどの楽しかったころを追憶する、またはそうなりたかった夢を追い求め続ける存在であることを示しているのかもしれません。



ガンヒルトのドッペル

ガンヒルト

ドッペル名:BLOT

離問のドッペル その姿は、破船
称号:離問は夢追いの果てに

説明
この感情の主は、双樹のように育った姉の心が離れてしまい、精神のバランスを著しく崩している。ドッペルはその不均衡から生まれた破壊衝動に呼応し、近寄るものがあれば一様に打ちのめし、破壊していく。ひとたび出現したら、その闇深い情動が紛れるまで、ひたすらに獲物を求めて暗い海を駆け巡る。しかし、その先には決して安息は待ち受けていない。

ドッペルに変化する部分
両足

ドッペル発動時のセリフ
「潰す」

離問は仲たがいをさせることを指す言葉です。ガンヒルトの過去を顧みると姉のためを思った行動がかえって姉との距離を置いてしまう行動になっていました。そんな自ら親しい者との仲を裂いていく行為や考えがドッペルに反映されたのでしょう。ただ、ドッペルはガンヒルトの抱える鬱憤を周囲にぶつけることが主な活動目的です。
破船は難破した船のことです。
ガンヒルトの迷走している心がドッペルに反映された結果かもしれません。

BLOTは古ノルド語(北欧神話やルーンで使用されていたらしい)で犠牲や生贄といった意味を指していたようです。
果たしてこれは襲われた人に向けているのか、それともガンヒルト本人に向けているのか。
どちらにしてもどんなに犠牲や生贄を重ねても、姉の夢をかなえることは叶わなかったでしょう。



ヘルカのドッペル

ヘルカ

ドッペル名:VIMALA UPADANA

狂信のドッペル その姿は、経典
称号:狂信の救いは贄を必要とす

説明
この感情の主は、人々を救う間に自分を見失い、周りからの狂信に執着している。そんなドッペルは、主の妄執を表すかのようにこの世の業火を一身に纏ったつもりで、救いを求める人々へ天啓をもたらそうと駆け続ける。だが、その姿を目にした者は、救われるどころかあまりのまばゆさに目が焼けると炎に巻き込まれてしまう。ドッペルは燃える者たちこそ救われたと思い、主も妄執に取りつかれたまま自らをかえりみることはないので、我に返ったときには新たな業を背負っている。

ドッペルに変化する部分
顔意外

ドッペル発動時のセリフ
「私が導く」

狂信は一つの宗教に狂っていると言っていいほどのめり込んでいる事であり、その宗教がいくら邪教と言われても信じれば救われると考えを改めない為何を言っても無駄な場合が多いです。ヘルカの場合も、ヘルカを中心とした宗教が誕生してしまっていて異常なほどにヘルカに救いを求める人がいました。そんな信仰対象となってしまった己自信がドッペルに反映されてしまったのでしょう。
経典は宗教の教えが記された書物のことです。ドッペル自身が経典だということは、ドッペル自身にすべての教えが刻まれているということなのでしょう。果たしてこのドッペルに記された教えは本当に救いとなるのか。

VIMALA UPADANAは「純粋な執着」と訳すことができます。VIMALAはヒンディー語圏の女性名として使用されることがあり、「純粋な」という意味があります。
UPADANAは取とも呼ばれ、仏教では「執着」を意味して煩悩の一種とされています。
今回の場合は執着もテーマとなっているドッペルであるため、UPADANAは執着という意味でとらえるほうが正しいでしょう。

 



トヨのドッペル

トヨ

ドッペル名:MAGATSUMONONUSHI

侵食のドッペル その姿は、大蛇
称号:侵食する祟りへ幸いを

説明
この感情の主は、憧憬を抱く母親へ近づこうとするあまり理想像に縛り付けられており、そんな自分をドッペルの姿に見ている。四肢より生まれたドッペルは、主の神経にまで絡みついて自由を奪い、精神を抑圧された者を鋭い嗅覚で感じ取ると、噛みついて毒を侵食させる。その毒から逃れられる者はいないが、抑圧からは永遠に解放される。その様子を目撃した主は、自身が禁ずる破棄と殺戮によって、今まで以上に呪縛に巻き付かれていくが、ドッペルは決して気付かないだろう。

ドッペルに変化する部分
左右手足

ドッペル発動時のセリフ
「体が、いつの間に」

侵食は土地が水や風で削り取られていくことを表す単語です。
ドッペルの説明にある「毒を侵食させる」という表現のように、「侵食」は体を蝕み破壊するという表現をするためにも使われるようになっています。
このドッペルにはトヨの願いにもあったように「かか様のようになりたい」が反映されています。
これと侵食にどのような関係があるのかというと、魔法少女になった後の後日談がほとんどないためドッペルの説明に記載されている内容からの推測からですが、自分らしさよりも「かか様(ヒミコ)らしさ」を貫いてしまったことからあらゆる考えが「ヒミコらしさ」に侵食され、トヨらしさが壊れてなくなってしまった最期を遂げてしまったのではと考えられます。
何か考える際も「こうしたほうが。いや、かか様ならこう考えるだろうから」という感じになったのではないでしょうか。

大蛇は書いての通り大きな蛇のことを表しています。
日本の神話で大蛇といえばヤマタノオロチが当てはまります。ヤマタノオロチは氾濫する川を象徴した存在とされており、他の地域にある大蛇伝説も大抵は洪水や鉄砲水による水害を大蛇と表現していることが多いです。
トヨのストーリーではあえて土地を削って水路を作ることで水害は免れましたが、そのような考えがなかった時代では水害は大蛇による仕業と考えられていたのかもしれません。
そのような経緯から、大蛇=災いと結びつくようになったのかもしれません。

MAGATSUMONONUSHIは禍津主神と書き表すことができます。実際に日本神話に存在したという記録はないようですが、言葉の意味をつなぎ合わせると禍津主神は「厄災をもたらす主体として奉祀されるほどの最高位の神」と訳すことができます。
ヤマタノオロチは神格化されて川を鎮めるために生贄を捧げられていたほど崇拝されている背景もあるようなので、トヨのドッペルはヤマタノオロチのような存在を表したものかもしれません。



アマリュリスのドッペル

アマリュリス

ドッペル名:CASSANDRA

予言のドッペル その姿は、天秤
称号:予言は拒みし者への呪い

説明
この感情の主は、天秤の姿をしたこのドッペルを見て人々の未来を知ることができる。このドッペルは予言の客観性を確保するために主に無機物で構成されており、天秤の一方の皿には”希望”、もう一方には”絶望”を示す印が刻まれている。皿の上に載せられているのは、救われる命と救われない命の重みであるが、あれらは主以外の者には視ることができないため、主の予言に耳を貸す者は少ない。これは「すべてを救いたい」という祈りとひきかえに、ひとりの少女としての心を殺した者に下される呪いである。

ドッペルに変化する部分
背中?

ドッペル発動時のセリフ
「これしか」

予言はとある事象が実現されるに先立ってあらかじめ明言するされることを指す言葉です。
ユニアは未来に必ず起こる火山の噴火から多くの人を守るために様々な予言を持ち出して同じ過ちを繰り返さないように行動していました。
この予言を行う行為がドッペルへ反映されてしまったのでしょう。
固有魔法はなりすましで、願いは「過去に生まれ変わりたい」であるため、固有魔法や願いではなくドッペルを出した際の主の状況が反映された例に当てはまるドッペルといえます。

天秤は質量を計測するための道具であり、水平な状態から左右の皿へ異なる物体を乗せて重さの比較を行ったり、水平な状態にするための量を計ったりするために使われます。
果たしてこのドッペルの天秤に乗せられる救われる命の重さは、誰の裁定で設定されているのか。

CASSANDRAはギリシャ神話で怒ったアポロンによって「予言を誰にも信じてもらえない」という呪いをかけられた王女のことです。
CASSANDRAにはもともとアポロンから与えられた真実を知る力を持っていたようで、彼女が伝えようとする予言は正しいものでした。
それ故に破滅の予言を行ってその破滅を回避するための助言を行っても呪いのせいで誰も信じず、予言通りの破滅が訪れてその後はCASSANDRA自身も悲惨な最期を迎えてしまいました。

今回は姉であるコルネリアに予言を信じてもらえたことでCASSANDRAと同じ結末を迎えずに済みました。



美国織莉子のドッペル

美国織莉子

ドッペル名:SOTRIA

煩悶のドッペル その姿は、舞踏会
称号:煩悶を呼ぶ未来の情景

説明
この感情の主は、予知した未来を変える事を使命としている。
風が吹き、花が散り、花びらは異界へと迷い入る。やがて立ち込めてくる霧があたりを包み込むと、その時は訪れる。
霧はたゆたう花びらと混ざり合い、宴の幕は開く。そしてこのドッペルはステップを刻み始める。そのステップが最高潮に達した時、まるで花に嵐の例えのように敵影は姿を消し、舞踏会には贄が供されることとなる。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「これが私の生きる意味」

煩悶にはいろいろなことに悩み、苦しむことという意味があります。織莉子が魔法少女になった理由は、父親の失墜と同時に周りからの自分の評価も変わってしまったことが原因でした。自分の生きる意味に悩み、苦しんだ結果、キュゥべえに生きる意味を知りたいと願いました。しかし、未来が見えてしまったことで新たに悩み苦しむこととなったのです。このドッペルには、願う前も、後も悩み苦しむ織莉子の心が移されています。
舞踏会は西洋の正式なダンスパーティーのことで舞踏会の英語「ball」はラテン語の「踊る」という語から来ています。この舞踏会では男女がペアとなって踊るということもあり、お見合いも兼ねていたとされています。
しかし、このドッペルのいう舞踏会は良いことへ邪魔をしてしまう月に叢雲、花に風のような扱いになっているようです。まるで彼女の踊りが誰かの邪魔をすると言っているかのようです。

SOTRIAはイタリア語で歴史、物語を意味するstoriaから来ていると考えられます。織莉子は願いによってその世界の歴史を未来視し、物語を変化させるに至りました。 SOTRIAには織莉子の歴史を変えるという使命が込められているのです。



呉キリカのドッペル

呉キリカ

ドッペル名:LATRIA

篭絡のドッペル その姿は、針
称号:篭絡された盲信者の愛

説明
この感情の主は、自身を救ってくれた恩人に対し、絶対な忠誠を誓っている。
ドッペルが穿つ針が貫くのは、何も対峙する敵に限ったことではない。
主の運命すらも貫き、縫い付けてしまう。
それはまさに、全てを捧げ、命すらも委ねている恩人への忠誠心の表れであり、他者に依存することでしか己を保つことができない危うさを象徴している。
針に鋭さが宿れば宿るほど縫い目は増え、容易に離れることはできない。
しかし、それはまさに主の願望を表すに他ならない。

ドッペルに変化する部分
心臓

ドッペル発動時のセリフ
「生まれ変わった気分だよ」

篭絡とは、うまくまるめこみ、自分の思うとおりに操ることという意味があります。これはキリカが篭絡するのではなく、篭絡される側です。もちろん篭絡しているのは織莉子であり、キリカ自信はそうであっても織莉子の役に立てればよいと考えています。
例えドッペルを出すことで副作用を受けようと、織莉子の願いであれば喜んでドッペルを出すでしょう。ドッペルもまたそんなキリカの姿勢に答えるのでしょう。彼女の写しなのですから。

針といってもこれはキリカを縫い合わせるための針であり、その針で縫い合わされる糸は織莉子がキリカを動かすための糸となります。

LATRIAはラテン語でラトレイアを意味し、神にのみ捧げられる礼拝を表しています。これはキリカが織莉子のことを人としては決して見ておらず、神として崇めていることを意味します。
ドッペルでさえも、織莉子のことを神格化させるほど織莉子はキリカにとって大事な存在なのです。



千歳ゆまのドッペル

千歳ゆま

ドッペル名:PISTIS

教化のドッペル その姿は、滴
称号:教化された孤独と不安の種

説明
この感情の主は、自身の想いに相反して、役に立たないという評価を下されている。物事を良い方向に導きたいのに、それを期待しないことへのジレンマ。
このドッペルは、まさにそのジレンマから生まれた。
幼いながらも・・・いや、むしろその幼さが醸成した、複雑に入り組んだ感情が、このドッペルの姿を形成し、維持している。
思い描いた理想の自分がいる場所、今の自分がいる場所に隔たりはある。
ただ、いずれも自分が建っている場所であることに違いはない。

ドッペルに変化する部分
右側のおさげ

ドッペル発動時のセリフ
「役立たずじゃないもん!」

教化は人々を教え導き、望ましい方向に進めることという意味があります。仏語として使用されていて仏教では人を導いて善に転化させることを意味します。
ゆま自身は杏子を助けたいという想いから魔法少女となっていて、魔法少女となった後も誰かの役に立ちたいと活動していました。
自分にとって望ましい方向にもっていきたいという欲望を感じる場面は無かったように思いますが、杏子とマミに死ぬのは今じゃないと伝える場面はありました。
もしかしたら、少しでも生きることを諦めてはいけないという教化のキモチがドッペルに反映されてしまったのかもしれません。
※これは2011年に発売されたおりこマギカから見た解釈です

滴は液体のしたたりを意味します。ゆまにとってこの滴は涙と同じ扱いのようです。

PISTISは信頼、誠実といった意味です。
果たしてドッペルにとってこの信頼は誰に向けられたものなのか。それともゆまの「信頼されたい」という想いからこの名前になったのか。



御崎海香のドッペル

御崎海香

ドッペル名:CATERINA

絶筆のドッペル その姿は、本の虫
称号:愛と絶望のベストセラー

説明
この感情の主は、言葉による自己表現と物語の完結に強い欲求を持つ。
創作されたものだけが物語ではない。
森羅万象、この世にある者すべてに宿っている。
そして、それが存在し続けていく限り、物語もまた続いていく。
だが、このドッペルは、綴っていた存在そのものを消すことで、その物語を終わらせてしまうだろう。
否応なしに筆は止まり、続きを書く者も現れることはない。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「これは、私?」

絶筆とは書き続けてきた物語の筆が止まり、そのままやめてしまうことです。
人の生き様も物語であれば、その存在が消えることで絶筆となる。あらゆる物語を絶筆させるドッペルの在り方を表しています。
ちなみに海香自身はよく筆が止まることはあるものの、全て完結させています。

本の虫とは、本を食らう虫のようによく本へ張りついている人のことです。
ドッペルの見た目そのままが本の虫ではありますが、かずみマギカで海香は本の虫というほど四六時中本のことしか考えていないという描写はありません。
しかし海香の人生は本が無くては成り立たないというのは確かです。

CATERINAはイタリア語圏の女性名として使用され、「クリーンでピュア」という意味があります。



牧カオリのドッペル

牧カオル

ドッペル名:ANTONIO

熱血のドッペル その姿は、ミノタウロス
称号:熱血最強のナンバー10

説明
この感情の主は、自身よりも他人を思いやる強い責任感をもつ。
ドッペルは、戦いにおいて相手を倒すことを「ゴール」と見立て、そのゴールを決めるまでは、闘牛のように猛進することをやめない。わき目も振らず、ただひたすらにゴールを目指す。
その道中にどれだけの攻撃を受けても、決して敵に背を見せることはせず、受けた傷から吹き出す血は、マグマのように熱く燃えたぎっている。
過ぎ去った後には焼印のような灼熱の軌跡が刻まれるだろう。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「とっておき!」


熱血はスポーツ系の物語では欠かせないほど使用される言葉で、燃えあがるような激しい情熱を示す言葉です。熱血自体は願った内容に関係なく、カオルの本質がドッペルに反映された結果でしょう。
姿がミノタウロスなのは、ゴール目がけて猛進する様子が具現化しただけでしょう。

ANTONIOはイタリア、スペイン、ポルトガル語圏で使用される男性名で、「値段が付けられないほどの」という意味があります。



昴かずみのドッペル

昴かずみ

ドッペル名:CAROLA

空腹のドッペル その姿は、美食家
称号:新生のルルティマ・チェナ

説明
この感情の主は、自分の存在が認められたことで、以前より前向きで余裕が生まれた。それに引っ張られるようにこのドッペルは、ただ食に対して貪欲なだけでなく、口にしたものを噛みしめて、素材が育む味わいを楽しむ余裕が生まれた。
とは言っても、相手が魔法少女であろうと、魔女であろうと、手当たり次第に何でも調理して、自らの体内へと収めてしまうことに変わりはない。
ただ、前と比較すると上品になっており、周囲に食べ物は散らばらず、テーブルに並べられた皿も自分用に置いておくだけになっている。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「まだ、絶望は」

空腹は生きていくためのエネルギーを体が求めている際に感じる感覚のことで、この感覚があることは生きている証でもあります。
そんな考えを持ったかずみの考えがドッペルに反映された結果、空腹の特性を得たのでしょう。
美食家は美味しいものばかりを好んで食べる人のことを指す言葉です。
初めての料理には興味をもって進んで試食するかずみの姿しか確認できず、微妙だと判断した食べ物を拒む様子はありません。
どんな料理でも美味しいと感じる部分を自分なりに見つけ出せているようなので、もしかしたら何でもおいしく食べてしまうかもしれません。

CAROLAはヨーロッパ系の女性名として使用されています。
由来は男、自由(農)民を表すcarlから来ているとされています。

ちなみにCAROLAは人となる前のかずみと同じで生まれ変わりはしたものの、人となる前と後でかずみの本質は変わっていないことが分かります。

称号にあるルルティマ・チェナ(L’ultina cena)とはイタリア語で最後の晩餐という意味です。



タルトのドッペル

タルト

ドッペル名:LA PUCELLE DO BLANCHEUR

浄火のドッペル その姿は、救国
称号:浄化の十字架に乙女は祈る

説明
この感情の主は、不道徳とは無縁の純白で善良な心をもつ。
ドッペルの導きによって舞い降りる無数の十字架は、ただの十字架ではない。
それは神性の否定を象徴する逆さ十字であり、その存在を感じた者はすべて己の中にある罪が無限に吹き出し、みるみる内に浄化の炎に包まれて、やがて焼き尽くしてしまう。
ドッペルはいかなる存在であろうとも罪を見つけ出し、白日の下に晒す。
つまりは、この理不尽なる清浄を受け入れるしか選択肢はないのだ。

ドッペルに変化する部分
背中

ドッペル発動時のセリフ
「光をもたらすために」

 

浄火は神聖な穢れのない炎のことを意味します。タルトを包んだ炎は、果たして神聖な炎だったのか。
そしてドッペルが正者にもたらすのは、罪を焼き尽くす神聖な炎。もちろん罪があればタルト自身も標的になりかねないですが、燃やされないということは元々罪がないのか、それともすでに浄火を浴びた後だからなのか。
救国は国を救うという意味であり、タルトが願った「フランスに光をもたらす」ということが「フランスという国を救う」という意味と同義であるため願いがそのまま反映されたといえます。
フランスを救うことは為し得ましたがその行く末を見守ることは叶いませんでした。

LA PUCELLE DO BLANCHEURはフランス語であり、日本語では「純白の乙女」を意味します。
史実のジャンヌ・ダルクは「オルレアンの乙女」と呼ばれていたためドッペル名は直接的にジャンヌ・ダルクを意味してはいません。
タルトという存在にとってのドッペルであり、純白で善良な心をもつラ・ピュセルとしてこの名が与えられたのでしょう。その心は、あらゆる原罪という黒き存在すら白く照らしてしまうほどの光を備えているのでしょう。



リズのドッペル

リズ・ホークウッド

ドッペル名:OBSCURITE

忘執のドッペル その姿は、黒影
称号:忘執は寄り添う影へと沈み

説明
この感情の主は、苦境に立たされても、他人を思う情の深さを持っている。
光あるところに影があるのは、まさしく摂理といえるが、影に置かれた立場としては、決して光をその身に受けることができないのもまた摂理。
このドッペルは、眩いばかりの光に浴する英雄の傍らにあって、常に寄り添う影であり、本質を決してつかませない闇そのものといえる。
しかし、だからこそ光の存在は、より一層際立っている。
両者は、摂理が結びついた切っても切れない関係にある。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「たとえ影が滅びようとも」

 

忘執とは、ある特定の考えに囚われていることを意味します。リズの場合は、「私はタルトの影として存在しないといけない」という考えに囚われています。
ドッペルの姿は黒い影であり、どれほどリズが影にこだわっていたかがこのドッペルには現れています。
また、本来は神浜市ではないにもかかわらずドッペルが誕生しています。夢のイタリアが若干神浜の法則を孕んだ世界だと考えればあり得る話ではありますが、本来リズはドッペルの誕生を目にすることができません。

OBSCURITEはフランス語であり、日本語ではを意味します。ドッペルの名前、姿、性質何から何まで闇や影にこだわったものとなっているのがわかります。



メリッサのドッペル

メリッサ・ド・ヴィニョル

ドッペル名:LA HIRE  LA HIRE

消滅のドッペル その姿は、震怒
称号:消滅は心震わす憤怒の果て

説明
この感情の主は、誰からも好印象を抱かれる温和な性格をもつ。
他人に力や作用が及んだ時に、反作用で押し返されることを「反動」というが、このドッペルは、まさに主の性格の反動から生まれたものであり、その姿の本質は震怒を象徴している。
相対する者を消滅せしめるまで打倒するその力は、平安を求める心を苛めば苛むほど激しく湧き出る。
一方的に打たれ続けているからといって、侮ってはいけない。

ドッペルに変化する部分
両手

ドッペル発動時のセリフ
「後悔はしていません」

消滅は消えて跡形もなくなることを意味します。このドッペルの主を怒らせる存在を消滅させるという性質から来ています。
震怒は激しく起こることを意味し、ドッペルを出した際の主の感情が反映されています。

LA HIREは古いフランス語で憤怒を意味するメリッサの父 エティエンヌ・ド・ヴィニョルのことであり、ドッペル名では憤怒が二度繰り返されています。
おそらくは憤怒よりも激しい怒りを表しているのでしょう。
ちなみに現代のフランス語で憤怒はRAGEと表現されます。



エリザのドッペル

エリザ・ツェリスカ

ドッペル名:EIN ROTER DRACHE

誇負のドッペル その姿は、暴竜
称号:誇負を宿せし火竜の気高き

説明
この感情の主は、所属するドラゴン騎士団に対して、強い誇りをもっている。
そして、このドッペルは、その強い誇りによって具現化されたものであり、炎の如く激しい彼女の根本的な性質を表した存在でもある。
加えて、騎士団としての使命を全うせんとする彼女の責任感と、それに伴う重圧感をも内包している。
この竜が姿を現す時、戦場を蹂躙し、食らいつくし、その暴威をもって比類なき力を示すことになるだろう。

ドッペルに変化する部分
両足

ドッペル発動時のセリフ
「わたくしの、誇りにかけて!」

誇負は自分のことを誇り、自慢するという意味があります。隙があれば自身の誇りを自慢してくるエリザの思考がドッペルに反映されています。
暴竜は文字にした通り暴れる竜のことですが、エリザにとって暴れるのは強い力を示すためではなく、自身の誇りを貫き通すため。とはいえ心を許す存在には口よりも手が出やすいという一面もあるためそんなエリザの裏の顔も反映されているのかもしれません。

EIN ROTER DRACHEはドイツ語で「赤いドラゴン」という意味です。
史実のドラゴン騎士団が結成された神聖ローマ帝国は時代が進むごとにドイツの主張が強くなっていた背景が反映され、ドイツ語が使用されているのでしょう。
赤いドラゴンはドラゴン騎士団の紋章として使用されていて、ドラゴン騎士団の象徴であるといえます。
そんなドラゴン騎士団に対して強い誇りをもっているためか、ドッペルは赤いドラゴンの姿として具現化したのです。まさに自身が、ドラゴン騎士団の象徴であると誇負するように。



コルボーのドッペル

コルボー

ドッペル名:PLAISIR

被虐のドッペル その姿は、月夜烏
称号:被虐の鳥が唄うは狂気の調べ

説明
この感情の主は、狂奔し、狂乱し狂喜する…。
あられもない嗜好が形となったこのドッペルの姿は、月夜に浮かれて鳴く鳥。
乱痴気の騒ぎの果てに生まれた、見る者を畏怖させる異形の存在だ。
このドッペルと対峙した者は、心の底から恐怖を味わうことになるだろう。
しかし、それはただの恐怖ではなく、常に彼岸に存在する者だけが醸し出すことができる類のものであるがゆえに、味わう者の自我を壊して、やがて狂気を引き出す。

ドッペルに変化する部分
マント

ドッペル発動時のセリフ
「ミヌゥ、お姉さま」

被虐は他から虐げられること、ひどい扱いを受けることという意味です。どちらかというと加虐する立場にいるコルボーにとって真逆な言葉な気がしますが、コルボーは少々ドMな性格であるためもっと痛みつけてほしいというコルボーの感情が反映されてしまったのでしょう。
月夜烏は夜遊びする人を指す言葉として使われます。どちらかというとコルボーという名前がフランス語で烏を意味することから、それにちなんででしょう。

PLAISIRはフランス語で楽しみや快楽を意味します。このドッペルの性質と合わせるといじめられる快楽というとんでもない業を背負ったドッペルであることが分かります。どうしてコルボーがこんなになるまで放置されてしまったのか。



ラピヌのドッペル

ラピヌ

ドッペル名:ENFANT TERRIBLE

嗜虐のドッペル その姿は、泣きウサギ
称号:嗜虐の幼子は永劫の闇に遊ぶ

説明
この感情の主は、残虐極まりない感情を持つ。
見た目はかわいらしいウサギのようではあるが、ゆめゆめ油断しないことだ。その実は、外見から受ける印象からまったくの真逆。
ひとたび補足されたら、まるで猛獣の牙にかかったかのように制圧されて無邪気に、遊びのように、そして残虐になぶられることになる。
遠くで響く、無垢でおぞましい笑い声と共に…。そうなれば、あとはもはや命運が尽きたことを自覚することしかできない。

ドッペルに変化する部分
髪の毛

ドッペル発動時のセリフ
「許さない」

嗜虐は残虐な行為が好きという意味です。可愛い容姿をしながら人を殺してしまうような行為を遊びとして嗜む性格がドッペルへ反映されたのでしょう。本人は遊んだ結果、人が死んでしまうことにためらいがないのでなおさらたちが悪いです。
泣きウサギはラピヌがフランス語で「ウサギ」を意味するのでそこからあやかってでしょう。ナキウサギという品種の兎もいるようですが、仮面の形からして関係はないでしょう。ちなみにウサギが鳴くのは珍しく、命の危険が迫るとキーキー鳴くような音を出すようです。

ENFANT TERRIBLEはフランス語で、恐るべき子どもという意味があります。フランスでは他人や大人を困惑させるほどの恐ろしいほどに遠慮がない子どもを表現する際に使用されるようです。遠慮なく人殺しを楽しむ子どもを見たら、それは誰でも困惑するでしょう。
そんなラピヌの在り方がドッペルにも反映されたのでしょう。



ミヌゥのドッペル

ミヌゥ

ドッペル名:CAPRICIEUX

加虐のドッペル その姿は、悪戯猫
称号:加虐の舞台に躍る九尾の刑鞭

説明
この感情の主は、戦場をまるで指揮者のように演出する。
姿こそ猫ではあるが、そのいたずらっぽい笑みの奥底は果てしなく暗い。そして、その果てには狂気に満ちた恐るべき本能が隠されている。9つになびく尾は、それぞれ拷問器具を携えている。ひとたび尾が振るわれたら、敵対するものを狩り、痛めつけ、それは動かなくなるまで続けられる。まるで猫が獲物を狩るのではなく、ただ弄ぶかのように。

ドッペルに変化する部分
尾にあたる部分

ドッペル発動時のセリフ
「憎い憎い憎い憎い!」

加虐はいじめ苦しませるという意味ではあるものの、ミヌゥは他の姉妹とは違って表立って加虐的な面は見せていません。とはいえドッペルにミヌゥの加虐の感情が映し出されたとなると心のどこかでは誰かをいじめたいという想いがあったのかもしれません。
いたずらをする猫というのは、人が悪戯をしていると思っているだけで猫本人にとっては遊びを楽しんでいるだけという話もあります。
なのでこのドッペルも、他人から見れば悪戯猫ですが本人からすれば戦いを楽しんでいるだけの猫なのかもしれません。

CAPRICIEUXはフランス語で「気まぐれな」という意味があります。
猫に当てはまる言葉ではあります。このドッペルにも、弄んでいて突然気が変わってすぐ殺しちゃうといった考えもあったりするのでしょうか。



ペレネルのドッペル

ペレネル

ドッペル名:HERMES TRISMEGISTUS

錬金のドッペル その姿は、合一神
称号:錬金術師の聖なる合一

説明
この感情の主は、好奇心の赴くままに分離し、精製し、合成する。このドッペルは、神秘を極めんとする心が生み出した合一の神性を体現しており、現世と異界を結ぶ使者としての役割を持つ。そのため主の危機においては、より高位の次元から介入を要請できるが、主は、万物は円環し完結すると考えているため、生じた次元の綻びを、自らの智が及ばぬ世界の神秘が存在する根拠と捉えてしまう。そのためさらなる好奇心を募らせ、危機を回避することを忘れてしまいがちである。


ドッペルに変化する部分
頭(脳)

ドッペル発動時のセリフ
「真理の光を」

錬金はよく知られた言葉となってはいますが、元々の目的は卑金属を貴金属へ変換しようとする試みを総称する言葉です。とはいえ錬金の試みの中には後に「化学」へと姿を変えた試みや不死を追及する賢者の石の生成といった試みも含まれます。ペレネルは錬金術を使用して魔法道具を生成することを得意としていたようで、魔法少女の助けになる武器を多く精製しています。
ペレネル自身が錬金を行えたため、その性質がドッペルへ反映されたのでしょう。
合一神は人間と神が1つに合わさったものを指す言葉で、神人としてもあらわされる存在のことです。
この世のすべてを知る存在、それは紛れもなく神でしょう。宗教ではよく全知全能な存在と扱われ、あらゆる知識を求めるものにとっては全てを知ることは神に近づくことといった考えもあるかもしれません。
とはいうものの、ここでいう合一神はヘルメスのことを表していると考えられます。


HERMES TRISMEGISTUSは錬金術師の祖とされる神人であり、錬金術師でもある存在です。
フラメル夫妻同様に賢者の石を手にしたことがあるという噂がある人物で、共通点が多いことからこの名が付いたと考えられます。
もしかしたらペレネル自身がどこかであらゆる英知を取得したヘルメスに憧れをいだいていた可能性はありますが、そういったことは本人の口から語れたことはなく、関連するエピソードからもわかりません。



天乃鈴音のドッペル

天乃鈴音

ドッペル名:CLOTHETTE

約束のドッペル その姿は、カゲロウ
称号:約束と残された鈴のお守り

説明
この感情の主は、炎を内に宿している。
それは復讐心によって燃え上がる炎でもあり、恩人とつないだ絆を示す炎でもある。だが、仇敵である魔女を滅ぼさんとするその火勢は、同時に苛烈なる運命を背負っている宿主をも焦がしている。形作られたカゲロウの姿は、まさにその命脈を表しているのだろうか。それ故か、連なる鈴から響き渡る音は、それを聞く者の魂にまで届く。
炎の先に揺らめく景色の中に何を見ているのかは、操る彼女にしかわからない。

ドッペルに変化する部分
左目

ドッペル発動時のセリフ
「取り返しのつかないことを」

約束という言葉は相手と取り決めを行うことであり、この言葉は鈴音と恩人である存在をつなぐ単語となっています。果たしてその約束とは嘘か真か。
この約束の真実は別種のレコードに刻まれています。

カゲロウは密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折する現象のことです。陽炎が発生した場所はもやがかかったように物体の存在があいまいになってしまいます。この場合、カゲロウが意味するのは燃え続ける炎から発生する現象を指しています。炎から浮かび上がるカゲロウは、鈴音を真実から遮りただひたすら約束のために戦い続けさせます。

CLOTHETTEはフランス語で鈴を意味します。
その鈴の音色が意味するのは死を告げる音色なのか、それとも鈴音の後悔か。



成見亜理紗のドッペル

成見亜里沙

ドッペル名:RENARD

臆病のドッペル その姿は、豪腕
称号:臆病と差し伸べられた手

説明
この感情の主は、孤独になることを恐れている。
周囲から一方的に打ちのめされた先に待っているのは、孤独無援の世界。ただ鬱屈した感情を抱いて、その場に座り続けるしかない。そこから脱するためには、逆の立場に立つしかない。つまりは、何事も跳ね返すだけの力を手に入れること。その力をまさしく顕在化させたのがこのドッペルではあるが、手中には、孤独へ立ち戻ることに恐怖する本心が据えられている。

ドッペルに変化する部分
左手

ドッペル発動時のセリフ
「私はいつも独りぼっち」

臆病はちょっとしたことにも恐れてしまうことを意味し、孤独感を感じることが嫌いな亜里沙の本心が反映されています。
豪腕は腕っぷしの強いことを意味し、亜理紗が自分の置かれていた立場を逆転させるために願った内容が反映されています。
どちらも亜理紗の感情、願いが反映された結果ではありますが孤独感から来る臆病な本心は願いから生まれた副産物でもあります。

RENARDはラテン語の「子ぎつね」から由来されるフランス語圏で姓として使用されている単語です。
ルナールが狐を表すようになったのは狐物語が広まったことが原因だとされています。狐物語は食物連鎖上、立場が上のはずのオオカミを狐が徹底的に打ちのめすというのが大まかな内容となっています。
今まで狐の立場にいた亜理紗は力を手に入れることで逆の立場となって打ちのめす側になるというまさに狐物語のような内容がドッペルに反映されていることをこのドッペルの名前は表しています。



詩音千里のドッペル

詩音千里

ドッペル名:SPICA

正義のドッペル その姿は、拡声器
称号:正義と歪めてしまった父

説明
この感情の主は、正しくあることを自分に課している。
主が訴える正義を信じているドッペルは、周囲の人々に、マイクを通して主の声を広めようとするが、いくつものスピーカーから拡張され反響する声はあまりに大きく、騒音以上の意味を持たない。仮に主がやめるように訴えても、自身が出す騒音のせいでドッペルには聞こえず、全ての人々が正しくなるまで止まることはない。

ドッペルに変化する部分
右手

ドッペル発動時のセリフ
「夢だけじゃ生きていけないの!」

正義は道徳的に正しい行為を指す言葉ではあるものの、そのとらえ方は人によって違います。ある人にとっては正義な行いも別の人にとっては悪事であるといったことはよくあります。どこか自分の信じる正しさを他人に押し付けがちな千里の考え方がドッペルに反映されたのでしょう。
拡声器は広く多くの人に言葉を伝える際に使用されます。そんな拡声器は、大事なことをささやく小さな声を打ち消してしまうこともあります。そんな見た目のドッペルも願いによる後悔を、打ち消すかのごとく振る舞います。

SPICAはラテン語で穂先を意味します。星言葉として「強運」が割り当てられているようですが、果たして漫画本編での扱いは強運であったのだろうか。



奏遥香のドッペル

奏遥香

ドッペル名:ODETTE

顕示のドッペル その姿は、瞳
称号:顕示と身勝手な嫉妬

説明
この感情の主は、完璧であることに固執する。
それは、ほんの出来心から犯した取り返しのつかない罪を拭うため。
このドッペルは、主のために罰を与えようと主を探すが、その大きな目が真下の主をとらえることはないため、罪人を永遠に見つけられないままである。
仕方がないので、ドッペルは当たりを見回し自覚なき罪を追う人々に罪を顕示することで存在意義を見たしている。

ドッペルに変化する部分

ドッペル発動時のセリフ
「やっぱり私じゃダメなの?」

顕示ははっきり示すという意味があります。このドッペルは対象の持っている罪をはっきりと示すことを役割としているようですが、肝心の主の罪については顕示できません。ドッペルの前に鏡を持ってくるか、水面まで連れていけば解決しそうではあります。実は遥香は心のどこかで自分を罰してくれる存在を求めていたのかもしれません。
瞳はドッペルの見た目そのままで、その目は罪人をしっかりと視界にとらえるために大きいです。しかしその瞳は、自分自身をとらえることはできない。

ODETTEはフランス語圏の女性名として使用されていて、昔のフランス語でいう富、財産を意味する言葉が由来となっています。





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ドッペルの真実