【叡智の終焉】倫理観という概念はあるが永遠に実現できない哀れな人類

倫理観ってなんだろう

調べれば「社会や集団で好ましいとされるルールや道徳的な価値観」といったワードが引っかかるでしょう。

この倫理観のとらえ方は文化によって異なるでしょう。

「人殺しはよろしくない」という認識が好まれるルールを持つ集団と、「人殺しはいくらやってもいい」という認識が好まれるルールを持つ集団。
ルールだけで見れば、双方の考えを咎めるほうが傲慢でしょう。

ルールはそれぞれの集団にとっての「常識」、「正しさ」であり、自分たちの常識と相いれないからといって「あの集団は倫理観がない」と咎めること自体が倫理観のない考え方です。

倫理観を語る上で大事なのは道徳的な価値観です。

道徳とは正直あいまいなもので、「個々人がお互いに善悪ををわきまえて判断・行動していくこと」が最低限言語化した場合に出てくる結果でしょう。
道徳を語る上で「道徳はルールや規範だ」という人は道徳をあまりわかっていない人です。
ルールや規範は集団で守らないといけないことで罰則が付随してきますが、道徳は個々人が心で決めることであり、罰則はありません。

道徳を持つことは個々人が日々を気持ちよく過ごしていくために大事です。
片方が得をして片方は損をするという白黒はっきりつける関係を作るのではなく、互いの妥協点を互いに認め合い、納得し合う関係を作ることが道徳的な行動となるのです。

前提として商品を売りたい商人と商品に興味がない客がいます。
商人が商品を売りたいと持ち掛け、客はその商品と値段に納得いきませんでした。ここで商人が「ならば仕方がないね」と納得し、その判断に客も納得すれば結果は交渉の決裂でも道徳的な解決ができたといえます。
ここで商人が「どうしても買ってほしい」と懇願し、客が「この値段なら買うよ」と納得し、その判断に商人も納得すれば交渉の成立という結果で道徳的な解決ができたといえます。

つまり倫理観があるといえるのは、「ルールや規範を守りつつも個々人が互いに折り合いをつけられること」といえるのです。

「お互いに」というのが大事な点で、片方が思い込みで納得して片方が納得できていなければ、それは道徳的に解決した結果とは言えません。

道徳的な行動には交渉が不可欠で、人類にテレパシーという能力は標準装備されていないため言葉や文字が頼りです。

そう、言葉や文字で意思疎通できなければ道徳的な行動は不可能なのです。

 

では倫理観はいつ生まれたのでしょうか。

倫理観は時代とともに変わっていくため、生まれた時期は人類が誕生してからといえて、かつ決まった内容はありません。

そして残念ながら、人類が倫理観ある立ち振る舞いを過去から今にわたってできてきたかというと、どの時代でもできてはいません。
できていると思い込んで、それっぽい倫理観のない行動を繰り返してきただけです。

なぜそう言えるかというと争いが絶えていないからです。

争いというのは、お互いに折り合いがつかず、決裂しても納得できず強硬手段に出た結果起こることです。

「どうしても譲れない?よろしい、ならば戦争だ」

こんな結果になってしまうのが人類の常です。

そんな中で倫理観という概念が消失していないのは、人類が集団行動をやめられず、争いのない世界という理想を捨てきれていないからです。

そしてその理想は時代が進むごとにハードルが高くなっています。

ハードルが高くなる要因として、人類が長生きするようになっていることがあります。

人類が長生きするようになった場合、短期的な折り合いではなく、長期的な折り合いを考慮しないといけません。
10年前は折り合いをつけれたが、10年後である今もその折り合った内容で納得できているかというとそんな話はなかなかありません。

10年前に恋人間で妻は専業主婦でよいという折り合いをつけて夫婦になったとします。
そして10年後の今に至るまでに物価が上がり、夫は給料はほとんど変わらないとなった場合、夫は妻へ仕事をしてほしいという交渉を持ち出すようになるかもしれません。その結果、妻が納得せず、互いに納得できないため強硬手段として離婚して他人になるということは珍しくありません。

このように10年前の折り合いを短期的に見れば折り合いがつく倫理観ある対応をしたといえますが、長期的に見れば将来のことを互いに納得しきれていなかったというなんちゃって倫理観ある対応であったという場合が出てしまうのです。

折り合いをつけるにしても、長期的な目線での折り合いを考慮しないといけなくなっているのです。

また、表面的な折り合いが横行し始めたのもハードルが上がっている原因です。
言葉や文字には表現しない「本心」を隠して表面的な折り合いをするという悪知恵を人類は残念ながら手に入れています。

特に貸し借りの場面でよく発生します。

100万円貸してほしいという交渉をする際、貸す側のAさんは「1年後返してね」と念押しし、借りる側のBさんは「絶対返す」と表面上は言葉や文字にしますが、本心では「返すわけないだろ踏み倒してやるよバーカ」と考えています。
このBさんの本心はAさんが超能力者でない限りその場で見破ることはできません。
このように表面上は折り合いがつけられていても、全体的に見れば倫理観のない対応がされていたとなります。

ここまで来ると人類が相手の本心を読み取る能力・技術を取得しない限り、永遠に倫理観ある世界の実現は不可能でしょう。

 

なんちゃって倫理観で人類は暴走を続ける

序盤で倫理観について尋ねましたが、あなたは「道徳」とは何か理解できているでしょうか。

よく教育現場で道徳が授業として取り上げられることもありますが、道徳とは何かをよく理解して授業を仕切る教育者はいないでしょう。本気で教える人もほとんどおらず、マニュアル化された内容で「やった」という実績を作って報酬をもらうだけです。

そう、道徳は教育現場で教えてくれません。
運が良ければ多くの人々と接して、「やられたらいやなこと」を経験して「自分はやられたらいやだから相手に同じ思いをさせないようにしよう」という考えが芽生えるでしょう。
しかし大抵の人は「これがやられたらいやなことか、欲求を満たせるからもっとやるか」に行きついてしまうのです。

これは家庭教育でも同じことが言えます。
親がよく「相手の嫌がることはやってはいけません」と注意します。
無邪気な子どもは「なぜ?」と聞いてきます。
この「なぜ」に自信をもって答えられる親は世界でどれほどいるでしょうか。

そうです、大人といわれる年齢になった人々も倫理観関係の「なぜ」に答えられる人はほとんどいません。
倫理観を理解できていないからです。

正直にわからないといえる大人はかわいいのですが、なんちゃって倫理観を振りかざす大人は厄介です。

その例として、「なぜ」の解として、「相手の嫌がることをすると、された相手がかわいそうでしょ」と同意を子どもへ求めてしまうことです。

冒頭で伝えた通り、人間は相手の本心を読み取る能力はありません。

これで子どもからなぜがさらに出てこなければ、親は納得したと勘違いします。
第三者から見れば、何も教えられていないのにです。

このように、人類には倫理観とは何かをしっかり教えられる人がいないのです。

仮にしっかり教えられる人がいるとしたら、第六感のようなものを持っていて本当に相手の本心を理解できる人です。

そしてなんちゃって倫理観は人類の歴史の中で、「宗教」、「愛国教育」、「詐欺」、「戦争正当化」、「政治」といったものに持ち込まれ、損得の駆け引きの道具となってしまっているのです。

なんちゃって倫理観の特徴は、その考え方を他人に強要する傾向があります。
空気を読め、モラルを持てといった言葉で怒られるもののすべてがなんちゃって倫理観です。

本当の倫理観は、冒頭で話した通り、互いに本心から長期的な折り合いをつけられることです。

なんちゃって倫理観は、折り合いを強制させてくるもの、ということです。

そしてこのなんちゃって倫理観が本当の倫理観だと誤解し、人類は後世に伝えてしまっているのです。

本当の倫理観が人類から失われてしまうのも時間の問題でしょう。
実はすでに、本当の倫理観は失っているのかもしれません。

この倫理観という考え方の変化は、人類の進化ととらえてよいのか、変わった環境への適応と考えていいのか。

私はなんちゃって倫理観を進化の結果、適応の結果ととらえるのは危険だと考えています。

折り合いの押し付けが相手のことを考えた行為として正当化されると、権力者が権力を使用して民へ折り合いの押し付けを強要しても咎める人が現れなくなってしまうからです。

これはほぼ洗脳に近いです。

そして民の間でも折り合いの押し付けが横行し、組織のつながりが利害の一致のみとなってしまいます。

そうなってしまうと人の心というものが何なのかも人類から失われてしまうでしょう。

人類が権力者にとっての「労働力」という名の「道具」として扱われるのが当たり前となるでしょう。

そう願う人類がすでにいる中、あなたは本当の倫理観を持つことができますか?

今後も人類は本当の倫理観というすべての人類が平和になる世界を理想として掲げ、なんちゃって倫理観に翻弄され、絶望していくしかないのです。

 

テレパシーに目覚めることができる物質や現象、生きている間に見つけてみたいものです。