【機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)】常識や固定概念を横に置けるかで評価が変わるジークアクス そこから見える「新時代」への歩み出し方

機動戦士ガンダム

このジャンルが誕生して45年を越え始めたこの時代に、
“「ニュータイプ」という概念に対して新しい解釈をしたい”
という監督の想いを含んだ新しいガンダム作品が現れました。

※引用元:https://animageplus.jp/articles/detail/62025/3/1/1

それが「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」です。
※以下GQuuuuuuXと表記する
ガンダムクァクスはジークアクスと表記します

 

ここから先は筆者の感想と思うことの記載が続きます。
考察でも何でもなく、「GQuuuuuuXはこういう作品だ」と正解を示すための内容とはなっていません。
記載内容についてはほとんどソースがないものです。持論です。

「こういう考えもあるんだな」という解釈をしたくない、無駄と思う人はここでブラウザバックをお願いします。

また、GQuuuuuuX最終回までのネタバレも含みます。ネタバレが嫌だという方もブラウザバックお願いします。

 

 

 

 

 

 

GQuuuuuuXは一応主人公をアマテ・ユズリハ(マチュ)として物語を進めていました。
しかしその物語を描くうえで、この物語は宇宙世紀という枠組みで「正史」と呼ばれる富野由悠季監督が描いたアニメ版機動戦士ガンダムの世界とはパラレルに位置する存在であること、シャリア・ブル、シャア・アズナブル、ララァ・スン、シュウジ、ニャアン、エグザベ・オリベ、コモリ・ハーコートといったGQuuuuuuX世界に生きるニュータイプ達にもフォーカスを当てて進行するという、どちらかというとニュータイプ達を中心とした物語として描かれていた印象を受けました。

この物語の総評を先に提示してしまうと、

「”ガンダム”としてやるにはしっかり理由があり、”「ニュータイプ」という概念に対して新しい解釈をしたい”という想いは物語に出ていた。しかし描写が足りなかったため、私たちのようなオールドタイプである視聴者にとっては誤解をしてしまう、理解できない内容になっていた。」

になります。

ではこの総評になった理由とGQuuuuuuXら見える「新時代」への歩み出し方について以下の流れで進めていきます。

 

  1. GQuuuuuuXが示した「ニュータイプ」の新しい解釈は「洞察に満ちた優しさを持って自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に生きられる存在」
  2. “ガンダム”としてやるべきだった理由 45年以上続くガンダムが見せてしまった「ニュータイプ」というの在り方を考え直してもらう必要があるため
  3. 「新時代」への歩み出し方 それはある程度の自由と若者を導く老人の大切さ
  4. GQuuuuuuXに足りないもの

 

では進めていきます

 

1.GQuuuuuuXが示した「ニュータイプ」の新しい解釈は「洞察に満ちた優しさを持って自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に生きられる存在」

GQuuuuuuXで描きたかった「ニュータイプ」の新しい解釈については、物語中でシロウズとして生きているシャア自身がキシリアに向けて発言していました。

“洞察に満ちた優しさを持つ者をニュータイプと理解しています”
ソース:機動戦士Gundam GQuuuuuuX 11話 11分36秒あたりのニャアンがジフレドの中で聞いたシャアの発言

今までにニュータイプとは何者なのかを考察してきた人たちの中でも、このシャアの考えに似た結論に至っていた人たちはそれなりにいました。

似た結論に至った一例
【本当はとても忍耐強い子】最高のNTカミーユ・ビダン。何故ジェリドを殴ったのか、何故壊れたのかを、家庭環境と友人関係などを踏まえながらしながら徹底解説【機動戦士ガンダム】
※宇宙人さん 作

このシャアの考え方であれば、特殊な空間認識能力が無くても、キラキラ空間に入れなくても、テレパシーが使えなくても、洞察に満ちた優しささえあればニュータイプであると言えます。

そんなニュータイプだから何ができるのかというと、「誤解が少なく、分かり合うことができる」ことだとGQuuuuuuXからは解釈できました。

そんな新しい時代へ進むために必要なもう一つの要素として「自由」があります。

「自由」という言葉はだいぶ圧縮された言葉で、人によっては解釈が大きく揺れる言葉です。これは英語のfreedomにも同じことが言えます。

私がGQuuuuuuXから読み取った「自由」は「オールドタイプの考えや常識に縛られない」です。それを体現したのがマチュです。そんなマチュに、シャリアは期待をよせていました。

そう読み取った根拠を記載していきます。

マチュはGQuuuuuuX 1話から現状に窮屈という形で違和感を持っていました。その違和感を「そういうものだ」でマチュは納得できていませんでした。それは言葉で表現することは難しい違和感でした。

GQuuuuuuX 4話ではシイコ・スガイと出会い、マチュを窮屈に感じさせていたのは「普通」であることがうっすらと見え始めます。

この「普通」も自由と同じく圧縮された言語で、人によって解釈が揺れます。
マチュが窮屈に感じていた「普通」は「オールドタイプの価値観や考え方」だと思われます。

その証拠として、マチュは私たちのようなオールドタイプからしたら普通ではない数々の行動をしてきています。

・マチュはジークアクスを勝手に自分の所有物にしている
・GQuuuuuuX 3話でシュウジにぶつかって全財産を失わせてもクランバトルで勝てばいいと言い出す
・進路希望で周りから真面目と思われる回答を出さない
・カネバン事務所から金を持ち出す
・アンキーへ銃口を向け、殺害はしていなくても発砲はしてしまう
・テロリスト扱いは濡れ衣とはいえ、親に迷惑が掛かっていることに責任を持とうとしない
・過去に犯した罪を償おうとしない
・行動が「自分のやりたいこと」優先になっている

これらについてマチュは最終回まで変に引きずらず、真っ直ぐに歩んでいきます。

このマチュの「普通」への向き合い方を見て、私たちのようなオールドタイプは常識や固定概念を横に置いて、客観的な評価を下せたでしょうか。
どこか自分たちの「普通」にあてはめて考えていなかったでしょうか。

ひとつずつ見ていきましょう。

・マチュはジークアクスを勝手に自分の所有物にしている

ジオンが開発した新兵器であるジークアクスにマチュは強そうだからを理由に勝手に乗り込んで最終的に私物化。
この行為を常識的に考えれば、窃盗どころではなく軍の持ち物を私物化したとしてもっと重い罪に問われてもおかしくないことです。
これはシャリアという存在のおかげでうやむやとなっていますが、マチュは特に気にしていません。

これに対して常識を捨てた見方をすれば、ジークアクスはマチュを気に入ってるし、恐喝に使うわけでもないし別に良いのではと思います。
シャリアが気にしていないのも、ジークアクスはマチュに任せてよいと思ったからでしょう。
「軍のものを私物化するのは罪」という考え方は、オールドタイプの社会が無法にならないよう勝手に決めたものです。
「新しい時代」を生きようとする存在は洞察に満ちた優しさを持っているため、無法に扱うことはないので特に気にすることではありません。

 

・GQuuuuuuX 3話でシュウジにぶつかって全財産を失わせてもクランバトルで勝てばいいと言い出す

他人の全財産を失うきっかけを作ったならば、その責任を持って謝るべきだ。その落とし前がクランバトルに勝って弁償することだ。
「クランバトルに勝てばいい」ってなんだ、勝てなかったらどうするんだ。
オールドタイプの常識的な考え方の主張はこんな感じでしょう。

「責任を持って謝るべきだ。その落とし前もつけるべきだ。」という考え方は、なぜ「普通」なのでしょうか。相手を思いやるなら当然の考えだと、なぜそう思えるのでしょうか。
どこかで「そういうものだ」で終わってこの主張になっていないでしょうか。
勝てなかった場合を考えていないという指摘はごもっともですが、他に道がないのも事実です。
できなそうだから無理かもと思いとどまるのは、この時代にとってオールドタイプな考え方なのです。

お金はクランバトルに勝てば出るからいい。勝てる自信があるからいい。結果は勝ちで終わった。
常識を横に置いておけば「よかったね」で終わる話です。何の問題もありません。

 

・進路希望で周りから真面目と思われる回答を出さない

進路希望調査関連はマチュと親のタマキとの間で考えがかみ合っていないことを強調づけるものでした。
マチュが進路希望でクラゲと回答したり、海で泳ぎたいと言いました。
常識的な思考回路であれば、「進路希望って今後どんな仕事につきたいかとかを書くものだろ。マチュふざけてるだろ」と思うオールドタイプはいるでしょう。

オールドタイプの常識には「大人」という考えがあります。大人になれば仕事をするべき、今後はお前はそのために動くべきだという固定概念がどこかにあります。タマキや先生が少し結論を急いでしまったのも、この固定概念があったせいでしょう。マチュは17歳ですし。

マチュは考えた結果、クラゲになりたいや海で泳ぎたいとしか表現できなあったのです。これはやりたいことをそうとしか表現できなかったのでしょう。

常識や固定概念を捨てた考え方をしてみたら、「それで進んでみてもいいんじゃないか」と思ってもいいのではないでしょうか。その結果が吉と出ても凶と出てもマチュの糧にはなるのですから。まだまだマチュは知らないことだらけなので、どんどん自分がしっくりくるまで様々な経験すべきなのです。

しかしそんな経験する機会を「普通」は早い段階で奪ってはいないでしょうか。

 

・カネバン事務所から金を持ち出す

「なんで自分のものではない金を持ち出そうとするんだよ。強盗になることもわからないのかw」と常識を持つ方は皆思うでしょう。
クランバトルで勝ちの結果を出したのはマチュとシュウジですが、その元締めはポメラニアンズで、お金の管理もポメラニアンズがやっています。当然の考えですよね。

しかし常識や固定概念を捨てて考えてみましょう。

結果を出したのはマチュとシュウジなのに、なんで見ていただけのポメラニアンズがその報酬の所有者扱いになってしまうのでしょうか。
実際にはエントリー手続きやジークアクスの置き場所を提供してくれてはいたかもしれませんが、それだけです。
正直書いている私も、何でポメラニアンズが報酬の所有者扱いになっているのかわからなくなっています。
「そういうものだから」、「常識だから」、「人間社会じゃふつうだろ」といった抽象的な言葉ではなく、具体的に誰でも納得いく答えを出せる人はいるでしょうか。

 

・アンキーへ銃口を向け、殺害はしていなくても発砲はしてしまう

「引き金引けば弾ぐらい出るだろ。殺害未遂になることぐらいわかるだろw」
オールドタイプ的考えならそう思うでしょう。

しかし常識や固定概念を捨てて考えてみましょう。
「導くべき大人の立場で子どもを利用してこの結果なら、撃たれても仕方がない」

マチュがクランバトルを続けていたのは、自分に近い感覚を共有できるシュウジ、ニャアン、そしてガンダムたちとともに地球へ行くためです。
マチュ達がクランバトルを利用するとともに、アンキーもマチュ達を利用していました。
違法行為に関わったらどうなるか、ジェジーやナブはまともな感覚でマチュを遠ざけようと対応をしていました。しかしアンキーはマチュがいることで得られる利益を優先してしまった。
悪い行いを咎めなかった人物に対して、発砲することの何がいけないのか。そこから殺害に至ってしまったらそれは大変よろしくないことですが。

 

・テロリスト扱いは濡れ衣とはいえ、親に迷惑が掛かっていることに責任を持とうとしない

「マチュは親不孝者だ。人生でその罪を償え」
オールドタイプが抱く思いはこんな感じでしょう。

子は親を敬い、親孝行すべきだ。というのが「普通」になっているからです。

常識や固定概念を捨てて振り返ると、マチュは優しさから最終的に親との再会という選択肢を捨てています。なぜならお尋ね者の身で表舞台に出るとまた追いかけられて、さらに親へ迷惑がかかるからです。

なぜ親へ子が恩返しするのが当たり前みたいになっているのでしょうか。
育ててくれるのはありがたいですが、だからといって子どもの将来を親に縛られるなんておかしいことではないでしょうか。
巣立ったら終わり。それでいいはずです。成長した後に親へ顔を見せる義務はないはずです。
誰が子は親を敬い、親孝行すべきだ。なんて考えを常識にしてしまったのでしょうか。

・過去に犯した罪を償おうとしない

過去に犯した罪はレッテルとなってその後の人生に不利に働くのは、オールドタイプの世界では普通のことになっています。罪を償うという行為で、オールドタイプは犯罪者が罪を清算していると納得します。

過去の間違いで未来を閉ざされる。そんなオールドタイプの世界では失敗は許されず、チャレンジなんてわずかな範囲でしかできない寒い世界となっています。

マチュにとっては「大人」となるためにはオールドタイプが定めた18歳か20歳までは子どもという考えはあまりにも窮屈で猶予が短すぎなのです。
まだまだマチュには経験と失敗が足りません。
常識や固定概念を捨てて振り返ると、そう思います。

 

・行動が「自分のやりたいこと」優先になっている

「将来は社会のために働くべきだ。自分のやりたいことを貫けるのなんてごくわずかだ」
オールドタイプの価値観では当たり前でしょう。

でも、社会のために働くべきだというのはだれが何のために言い始めたのでしょう。
やりたいことに向かって進み続けるマチュに対して、どこか良くない思いをしている人は、心のどこかで「社会のために働けよ」と思ってはいないでしょうか。

 

ここまでのマチュが行った「普通」ではない行動を見ると、「普通」はあらゆる行為を縛る鎖のような存在になっているように見えます。
この「普通」に縛られていると、洞察に満ちた優しさよりも「普通」が優先されてどうしてもオールドタイプの考えの中でしか生きていくことができなくなります。

正史のニュータイプ達も、「普通」に苦労していたのではないでしょうか。

よってGQuuuuuuX世界で示された「ニュータイプ」のありのままで未来に進んでいくためには、オールドタイプ達が世を維持していくために生み出した「普通」から解放された「自由」も必要なのだと解釈したのです。

それを示したのがマチュなので、総合的に

GQuuuuuuXが示した「ニュータイプ」の新しい解釈は「洞察に満ちた優しさを持って自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に生きられる存在」

と言えるのではないでしょうか。

洞察に満ちた優しさを持っていて、自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に歩むマチュの姿を見たからこそ、空虚だったシャリアは希望を持てたのでしょう。

仮にマチュでも「普通」に縛られて歩みを止めてしまっていた場合、シャリアは「この世界でニュータイプにとっての未来を作るなんて無理だ」と絶望してしまっていたでしょう。

マチュが本物と呼ばれる理由は、ニュータイプであるのもそうですが、自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に動ける存在だからではないでしょうか。

ニュータイプの希望を見せられているあたり、マチュはしっかり主人公をしていたと思います。

 

 

2.”ガンダム”としてやるべきだった理由 45年以上続くガンダムが見せてしまった「ニュータイプ」の在り方を考え直してもらう必要があるため

昨今のガンダム作品で、こう思う機会はそれなりにあります。

”それガンダムとしてやる必要ある?”

ガンダムのネームバリューを借りて宇宙世紀とは関係ないロボット物をやっていると、そう思うことがあります。

GQuuuuuuXは”ガンダム”としてやる意味は大いにあります。それは「ニュータイプ」の新しい解釈を示すためです。

仮に宇宙世紀ではない舞台で、「これがニュータイプの新解釈です!」と綺麗な終わり方で見せたとしても「その考え、実際に宇宙世紀で通用するの?」で終わるだけです。

そのために正史とのつながりを持つ必要があったのです。

正史が見せた「ニュータイプ」とはララァ、アムロ・レイが中心でその後出てくるカミーユ・ビダンも併せて「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」が前面に出ていました。正直シャアは正史が見せたニュータイプとしては少し力不足なのであまり話題にならないです。

このせいか宇宙世紀では機動戦士ガンダムから逆襲のシャア、F91、Vガンダムそしてそこに付随してきた外伝に至るまでニュータイプの扱いは「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」が先行して戦闘マシーンであるかのようにニュータイプは戦いの場に駆り出されていました。

よって「ニュータイプ=戦闘で超能力使える化物みたいな存在」な解釈が普通となっています。

そんな宇宙世紀の普通の解釈に対して、GQuuuuuuXは「ニュータイプ」の新しい解釈を示すためにどのように宇宙世紀を描き直したのかを見ていきます。

ゴールはマチュが洞察に満ちた優しさを持っていて、自由(オールドタイプの考えや常識に縛られない)に歩むことです。
そこへたどり着く間に「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」を示してしまった過去と照らし合わせる意味も込めてララァ、アムロの出演が必要でしょう。そしてララァが大事にしていたシャアも必要です。

しかし残念ながら、ララァ、アムロ、シャアの同時出演は不可能です。
何故ならどう考えても正史の一年戦争では、アムロに圧倒されるシャアをかばってララァが死んでしまうからです。
これを覆すのは大変厳しく、冗談で言われているララァRTAのような考えになってしまいますが”アムロがガンダムに乗る”それだけで運命が決まってしまうのです。その間にどうあがこうが、歴史の修正力と呼んでもよさそうなもので決まった運命に戻されてしまいます。

ギレンの野望というゲームでは様々な歴史分岐が用意されていて、アムロが乗る前にガンダムを強奪するか、ランバ・ラルにドムを届けるか、黒い三連星にゲルググを届けなければララァが死ぬ正史エンドが確定します。

よくアムロの話題で「アムロがいたから連邦が勝てたのか?」という議論が湧いて出てきます。
それは何とも言えませんが、ジオンが出してきたサイコミュへ対応できた初めての存在がアムロで、アムロが「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」を体現させてしまったのは正直事実だと思えます。この考えを修正してくれる存在は、連邦には存在しません。

ララァは誰も実現できなかった無線でビットを扱うことを体現してしまい、ジオンにとっても「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」であることを見せつけてしまいます。ジオンにもこの考えを修正してくれる存在はいません。

生き残ったアムロはどうなったかというと、優しさは持っていたものの地球連邦という大きな力によって軟禁されるという悲しい経験をし、逆襲のシャアの最後まで戦場にいました。
残念ながらアムロはニュータイプの在り方を変える機会を作ることは出来ませんでした。

生き残ったシャアは、自分を叱ってくれるカミーユというニュータイプに希望を持っていましたが、戦争によってカミーユは壊れてしまいました。
※映画版はなんか壊れなかった

逆襲のシャアはカミーユが壊れてしまった場合の延長線上の話で、シャアは希望を壊したこんな世界嫌だという想いと、ララァを殺したアムロに決着つけたいというエゴを発動して、未来のニュータイプを導くような動きは出来ていません。ましてやクェスを戦いの道具に誘導してしまうほどのダメっぷりです。アムロよりひどいことをしています。

こんな感じに、宇宙世紀ではニュータイプの在り方を変えてくれる存在はいませんでした。

GQuuuuuuXはそんな宇宙世紀をどう描き直そうとしたのかというと、「アムロが戦の場に出る機会を消して、ジオンを勝利させ、シャアがアクシズ落とししないようにしよう」という方向性になりました。

これを実現するために、神の視点として行動できる別世界のララァという存在を作り、どうやり直しても死んでしまうシャアを助けるために何度もやり直した世界の終着点がGQuuuuuuXの世界としたのです。
そしてニュータイプ達を導いてくれるよき理解者として、シャリアが抜擢されます。

シャリアは正史では描写が少なかったです。木星帰りで勘が鋭く読心能力もすごい、そしてアニメ版で少しですがアムロと分かり合おうとした存在です。
そんなシャリアをニュータイプ達を導いてくれるよき理解者とするために設定し直した結果、根回しもできて、いい大人を演じれて、シャアの真の理解者となって、ニュータイプを大事にしてくれて、政治への理解もあるチートキャラになりました。

・・・ちょっとやり過ぎな気もします。

しかしここまでやって「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」を示してきた宇宙世紀をGQuuuuuuXでたどり着きたいゴールに辿り着かせる道筋が見えてくるのです。宇宙世紀悲惨すぎる。

これで何が起こるかというと、アムロが宇宙世紀の表舞台から姿を消します。「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」を体現した元凶の一つが消えるので良いのですが、機動戦士ガンダムの初代主人公を否定するというとんでもない事態です。人によってはこの時点で「GQuuuuuuXは駄作」と考えてしまう人がいるかもしれません。

GQuuuuuuXではアムロに似た存在としてシイコが出てきます。卓越した空間認識能力とスティグマ戦術を利用して敵を次々と倒していく魔女として恐れられ、連邦が危うく「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」がニュータイプという考えに至らせてしまいそうな不安分子でした。
登場してすぐに死んでしまいましたが、連邦に正史のニュータイプの考え方を浸透させる機会が潰れたといえばよい結果だったでしょう。

しかしシイコは「ニュータイプの素質があっても、死ななければわかり合えない存在は少なからずGQuuuuuuXにもいる」という大事な解釈を示してくれています。無駄ではありません。

ではこの世界のララァはどうかというと、シャアが地球に来る機会を無くし、ガルマ・ザビを殺した後悔の中で娼館にいるララァと出会うというフラグが折れたので、ララァはずっと娼館にいることになっていました。

これで正史で「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」を体現した存在たちを黙らせることができました。
それでもシャアとシャリアが「戦闘で超能力使える化物みたいな存在」がニュータイプであると結び付けてしまう動きをしてしまうため、そのままでは歴史の修正能力で正史と同じ結果になってしまいます。
そこでシャリアにはニュータイプを軍事利用しようと進めるジオンの権力者であるギレンとキシリアを同時に排除する、そして空いた権力者の穴をシャアが埋めてしまわないようダイクンの血を引く存在であるアルテイシアを擁立させるために暗躍してもらうことで歴史の修正能力に抗います。

あとは遊び心で宇宙世紀の要素で肉付けし、GQuuuuuuXの全12話は完成しました。

神視点で行動できる別世界のララァや、チートキャラのようになったシャリア、そして政治をさせてもらえないシャアや新時代を歩むマチュがいることでGQuuuuuuXは過去の宇宙世紀が示し続けたニュータイプの在り方を考え直させることができたのです。

 

3.「新時代」への歩み出し方 ある程度の自由と若者を導く老人の大切さ

新時代を歩むマチュですが、最終回の時点でも歩み出したばかりでまだまだ未熟です。新時代へ後輩のニュータイプを導くにしてはあまりにも未熟です。

そんなマチュが新時代を歩むに至れたのは、様々な自分の立場に近い存在と出会って、成功と失敗を経験し、そしてシャリアというニュータイプに理解のある大人に導かれたからこそです。

オールドタイプとしての将来の歩み方や指標はたくさんありますが、ニュータイプが歩む新時代については歩み方も何もありません。
そんな何もない新しい道を1人で歩んでいくことは無理に近いです。しかもオールドタイプの世界の中でです。

サイド6時点でマチュに助言をした存在としてタマキとアンキーがいましたが、その二人は「オールドタイプの視点と感覚」での助言です。ニュータイプであるマチュにとっては何か違うなとなったり、大人は嫌いだという考えになったりとマチュを導けるような存在にはなれませんでした。
きっとタマキの助言はオールドタイプにとってありがたい内容だったかもしれません。しかしマチュはニュータイプで新時代を歩もうとしています。
助言が助言となっていないのです。

そんなどう歩めばいいか分からない中、自分に近い存在であるシュウジとニャアンのためにクランバトルを続けたマチュはGQuuuuuuX 7話で大きな間違いを犯します。その結果なぜかテロリストの汚名を着せられます。
そんな災難の中で唯一マチュを守ってくれたのが、なんとジークアクスことエンディミオンシステムです。

GQuuuuuuX 9話からニュータイプの目線で導いてくれる存在となるシャリアと出会い、自分に近い存在であるララァ、コモリと出会ってやっと新時代への歩み方を少しですが知ることができます。そしてある程度自由に振る舞わせてくれました。
GQuuuuuuX 5話でエグザベとも出会っていますが、彼はマチュに影響を与えられるような存在にはなれませんでした。その代わりシャリアにとって大事な存在とはなりますが。

GQuuuuuuX 10話でやっとマチュは赤子のようなたどたどしい歩き方から軽やかな歩き方になりました。その頃にはマチュには、だれの力も借りないで生きていけるようもっと強くなりたいという決意もありました。
※ソース:機動戦士Gundam GQuuuuuuX 12話 18分40秒あたり

そしてジークアクスの操縦はエンディミオンシステムの力を借りなくてもできるようになっていました。

それからGQuuuuuuX 最終回まで、マチュは自分の思うがままに動き、チャレンジしました。その結果、ニャアン、シュウジとキラキラ空間で分かり合うことができ、別世界のララァを助けることもできました。
その過程ではシャリアや別世界のララァによる手助けがあり、残念ながらマチュ1人でたどり着けた結果ではありません。
事態が終息した後の地球の暮らしも、マチュ達が自分で稼いで自立した生活をできているかというと、描写が無くてわかりません。

そう、最終回を迎えてもマチュはニュータイプとしても、人としても未熟なのです。マチュは17歳らしいので、オールドタイプの世界では大人として生活しないといけない時期ですがマチュは大人として振る舞うには、幼いです。
新時代では17歳でも幼いことを許容しなければ、ニュータイプにとっては過ごしにくいのです。
そんな状態で問答無用で「大人」として扱ってしまうオールドタイプの世界、残酷とは思いませんか。
そんなニュータイプ達が過ごしやすい世界になるよう、アルテイシア達には頑張ってもらいたいです。
マチュ達のような若いニュータイプ達には、まだオールドタイプ達を黙らせるような政治はできないのですから。

 

GQuuuuuuXでわかる「新時代」への歩み出し方ですが、それは「理解ある年長者が歩き方を知らない若者たちを長い目で導けなければ始まらない」ということです。

これはリアルにも言えることで、
自分達が子どもだったとき、親は自分たちを誤解なく導いてくれたでしょうか。指導はしてくれたかもしれませんが、そこにある程度の自由はあったでしょうか。
そして失敗をしてしまった時、糧にして次で頑張ればよいと助けてくれ、チャレンジの機会をたくさん与えてくれたでしょうか。

私はそうだと、自信を持って言えません。

そしてリアルの時代は、若者を導けるほどの知識も経験もないのに無理やり「大人」というレッテルを張ってはいないでしょうか。そして無理矢理「大人」となったものたちは、若者から導いてくれることを期待され、その期待に応えられているでしょうか。
どちらかというと、じいちゃんばあちゃんの方が導いてくれて、失敗したときに助けてくれる印象がありました。それは老人になるころがやっと若者を導けるほどの知識や経験を持つ頃だと言えるからではないでしょうか。

しかしそれも過去のこと。
2025年現在では、若者を導く存在がSNSや動画サイトのインフルエンサー、そしてAIになってはいないでしょうか。しかしそれらは失敗した後を助けてはくれません。失敗したら周りから後ろ指をさされ、チャレンジする勇気はなくなっています。

これがすでに結果でしょう。

2025年現在、若者を導ける大人は少なくなっています。老人でも導けるような存在は少なくなっています。
なぜなら「未熟な若者」が無理矢理「大人」というレッテルを張られているだけだからです。そしてその「大人」が老人になっても導けるほどの知識と経験を持っていないのは、失敗したらすべてが終わるという「普通」のせいであまりチャレンジをしてこなかったのではないでしょうか。
2025年は老若男女の全員が未熟で導き手が少なすぎるというヤバい状態です。「普通」で誤魔化せているだけです。

リアルの時代は「子ども」と「大人」という考え、そして「普通」の在り方を改めて考え直すべきなのかもしれません。
しかしそんなことをやってのけるシャリアのような存在は、リアルにはいません。

「新時代」が来ること自体が絶望的なリアルの世界、シャリアのような導いてくれる救世主が現れるのを待つしかないように思えます。

 

4.GQuuuuuuXに足りないもの

GQuuuuuuXは「ニュータイプ」の新しい解釈を示しました。

示しはしたものの、その内容は私たちのようなオールドタイプにとっては言葉足らずで、どこか無責任な終わり方をしました。

言葉足らずというのは、映像作品だからこその難しさや、リアルのオールドタイプが作った世界による制約が起こしてしまったことです。

そのまえに、GQuuuuuuXでは所々でニュータイプの感覚を味わえる機会がありました。
特に印象的なのはGQuuuuuuX 12話 13分30秒あたりでシャリアがシャアに対してはなった言葉。

“わたしにはわかる。あなたがジオンを率いるのは危険だ。いつかキシリア様のように、地球に住む人類の粛清に辿り着く”

この言葉だけで、初代ガンダムから逆襲のシャアを見てきた人たちの間では「そのとおり」という共通認識を持てたのではないでしょうか。
宇宙世紀をよう知らない人にとっては「何でわかるの?」となるでしょう。
言葉を交わさなくてもわかる瞬間、それがあることでGQuuuuuuXは所々表現すべきところを省いてきました。

それでも、12話の内3割程度は過去の宇宙世紀の映像を焼き直したものやジオンが勝つまでの過程を描写することに使用されました。

作中で頻繁に使用されたキラキラの演出は映像作品だからこその難しさが出ていました。

キラキラ空間は文字媒体で表現する際、キラキラ空間内で起こったことを描いた後に、”気が付いたら、元の世界に戻っていた。あの空間では5分ほどいた感覚だったのに、元の世界では数秒しか経っていなかったようだ”のように表現すれば、キラキラ空間内で過ごした時間=元の世界で過ぎた時間という誤解はなくなります。

しかし映像作品ではそう表現することは難しく、ただ見ているだけではキラキラ空間内で過ごした時間=元の世界で過ぎた時間としか見えません。実際に見ていた時間と同じくらいの時間が、リアルの時計の針でも進んでいるのですから。
どうしても時間のずれがあるということは、説明口調でキャラに話させるしかありません。それだけで映像作品の限られた尺は削られます。

では12話ではなく24話とか話数を増やせなかったのかという話ですが、そこにはリアルのオールドタイプが作った世界による制約があります。

お金の問題、放送してくれる会社たちの都合、そして出資者となるスポンサーのご機嫌取り

2025現在では、これらが関係して12話が限界だったのでしょう。それ故に描写不足で物足りなさを感じる部分が多いです。

そして作中で使われた「自由」や「普通」という表現は序盤で話した通り、人によって解釈が揺れる言葉です。
7話までのマチュの動向は、「薬物にはまって闇バイトに手を出しているヤバいやつ」と私たちオールドタイプにとってはとらえてしまうような演出でした。

「夢に向かっている様子」ととらえるには12話まで見て1話から再度見返して「そう見えるかも?」とやっと疑問形に辿り着ける感じです。

「自由」を求めてキラキラにはまる という表現だけ見るとわかる人には「テレパシー空間であるキラキラは「自由」になれる心地の良い場所なんだろう」と思えますが、
リアルでとっつきやすいものだと「キラキラは薬物でヤバいものが見えているの暗喩か?」となってしまうのかもしれません。とっつきやすいものが薬物という時点でリアルの方が相当ヤバいですが。

そしてクランバトルはシュウジやニャアンと地球に行くという夢を叶えるために参加しているものです。
まともに稼げよという考えはごもっともですが、それを咎める存在がいなかったのが事実です。大金がすぐに手に入るならば、クランバトルをやり続けた方が早く地球に行けるようになります。それ故に最近の闇バイトとつなげてしまう人が多かったのでしょう。

もう少しマチュがキラキラにどんな印象を持っていて、キラキラ空間とはどんな場所なのかを説明口調でもよいので早めに言及するべきだったのではないでしょうか。
尺の都合で省かざるを得なかったかもしれませんが。

そしてクランバトルではなく、まっとうなバイトで稼いだ方がという疑問を投げかける存在を登場させて、なぜクランバトルじゃないといけないのかをじっくり描いて夢に向かうための最適解がクランバトルなんだと印象付けてもよかったと思います。
尺の都合で省かざるを得なかったかもしれませんが。

コモリが急にゼクノヴァに詳しくなったり、本当のニュータイプはそんなことをしないとシムスに言い出すところは唐突過ぎて少々ホラーです。もう少しコモリ自身についても描写すべきだったと思います。
尺の都合で省かざるを得なかったかもしれませんが。

このように、尺の都合でGQuuuuuuXという作品はオールドタイプにとってとっつきにくい内容となってしまっているのです。
OVAなどで補完してくれる機会があると、この作品は再評価されるかもしれません。

また、戦争に巻き込まれるだけの一般人で、特殊な能力はなくても洞察に満ちた優しさを持つ存在を出せば、もう少しニュータイプの新解釈を理解してもらえたかもしれません。
残念ながらGQuuuuuuXは「キラキラを感じ取れたらニュータイプ」という印象が強かったので。

GQuuuuuuXがどこか無責任な終わり方に見えるのは、ニュータイプの新解釈は示したものの、それは宇宙世紀で継続可能な解釈なのかという点です。

GQuuuuuuXの世界、まだまだ不安要素は残ったままです。

マチュ自身は誰の力も借りないで生きていけるようにと決意はしていましたが、海でニャアンと一緒にいた時点では資金的にも自立できているのかという不安が残る終わり方でした。
仮に投資で成功していたとしても、オールドタイプの世界に頼っている状態で、新時代の生き方ができるか疑問が残ります。

あの世界でニュータイプを導ける存在はシャリアしかいませんが、その後継者としてエグザベは成長できるのかも不安が残ります。つまり後継者問題に不安しかないのです。

今度シイコのような過激なニュータイプが出てきたときに、殺しではなくわかり合うで解決できるのか。
それができなかった時、マチュは歩みを止めずに歩き続けられるか。

そんな、新解釈の良い部分だけを見せて終わって、将来に残る不安は投げっぱなしにするんですかというもやもやを残したのも、GQuuuuuuXの悪い点です。

その後についても続編という形で描いて、さらに希望を見せて欲しいところです。

 

 

さて、ここまで長々とGQuuuuuuXについて語りました。
GQuuuuuuXは日々の常識や固定概念を横においてぜひ見直してみてください。それでGQuuuuuuXの評価が少しは変わることを祈ります。

GQuuuuuuXはニュータイプの新解釈として素晴らしいものを示してくれました。
今後のガンダム作品に良い影響が出るよう、応援したいものです。

 

※このページは、機動戦士Gundam GQuuuuuuXの要素を扱っています